身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

他人に、どれくらい譲歩すべきか。

 少し前に軽く触れた精神疾患を持っている友人に、暇? とLINEした。未読スルーという言葉があるが、それとは違い、読むことすら、ままならなくなることがある。互いに似た症状なので、あぁ、これは駄目なんだな… と思った。そして、しばらくしてから、差し支えなければ一緒に食事をしませんかという連絡が来た。かなり遠慮がちだ。

 私からのLINEに気が付いて、急いで返信してくれたようである。悪いし、私から連絡したしと思って待ち合わせをして食事をした。ちなみに、東京は先ほどまで曇りだったのに、台風のせいか、急に雨が降り出した。次の写真は2時間しか違っていない。傘を持たない人々が地下鉄の出口で立ち往生している。

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 で、食事をする段になって、今日は誕生日だという。それだったら、むしろ積極的に甘えてくれても良かったのにと思った。しかし、それを事前に言えないのも、精神疾患を持つ人の悲しい性である。自分の誕生日の予定さえ立てられないというのは、なかなか辛い。かくいう私も、午前中は絶不調で藻掻き苦しんでいた。

 普通に過ごしているつもりが異様に疲れてしまうところも、この病気の困ったところである。この辺のことについて、外出先で読んだ河合隼雄さんの文章に得てして妙な例えがあったのだが、外出先にあった本なので、内容を正確に覚えてない。簡単にいえば、心のエネルギーというものがあるとしたら、エネルギー保存の法則(という言葉は出て来なかったが)というのは通用しない、新しい鉱脈を掘り当てたように増えるというような話だった。

 上に書いたように、互いにハッピーという場合があり、それが理想だが、私は、自分が疲れても、それ以上に相手が嬉しければ、それで良いと思っている。逆に、自分が疲れて相手も疲れては、それは無駄な時間だという気がする。私が楽しいのに、それ以上に相手がツマラなかったら、悪いと思う。ある意味「心のエネルギー」の賃貸対照表を作っているようなものだ。

 誕生日というのは、かなりプラスの出来事なので、私としては大幅に心の支出を増やそうと思った。しかし、食後の一服に付き合ってくれるだけで良いという。しかし、もっとスペシャルな時間にしてあげれば良かったなと思う。それは、すなわち、自分にとって、誕生日というのは、もっと値段が高いことなのかもしれない。

 自分でも何がいいたいのか、よく判らなくなったが、今は午後9時56分なので、推敲せずにアップする。