身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

妥協の産物。

 今日は気が利いたものが書けそうな気がしたが、何を書きたかったのか忘れた。今朝は久しぶりに熟睡して、カメラに大きなレンズを付けて持ち出す。

 

 欲しいというところまでは書いて買ったことを書いたのか忘れたが、先日、このレンズを買った。

 

 並べて写真でも撮ればいいのだろうが、そういう手間も時間もないので比較サイトの情報を貼っておく。

kakaku.com

 

 大きさは寸法から想像が難しいかもしれないが、フィルター径というのは、レンズ前方の直径より少し小さな値だと思っていただいていい。そして、一目瞭然で判るのは、重さが、約、倍。

 このサイトのレビューにもあるが、小さい方のレンズ(20-40㎜)を買ったら大きな方のレンズ(16-50㎜)を使わなくなったという人が多い。

 しかし、小さい方のレンズは、小さくするためにスペックに妥協した感じがする。もうちょっと焦点距離域が長ければ… 解放F値がテレ端でも2.8あれば…。

 まぁレンズを1本しか持ち歩きたくないという私は、それだけで妥協している気がするが、それを、さらに小さいものにしたいというのは、さらなる安易な妥協というような気がする。

 加えて気になるのは、皆、小さい方のレンズの方が写りが良いと言うことだ。それでは、そんなに大きなレンズの写りが悪かったのか、気になった。

f:id:urigayatsu:20190812191413j:plain

 

 Instagramにアップしたためにトリミングがされているが、小さい方のレンズにはない50㎜域のF2.8で撮った写真。

 なぜ、このレンズがボケボケといわれるのに、ライカズミルックスは綺麗なボケといわれるのか。私にとっては、このレンズの方が扱いやすい。

 例によって、浜松町にある、あいはーと・みなとに行ったのだが、そこでの写真。これは露出こそプログラムAEだが、やはり望遠端が50㎜まであると心強い。

f:id:urigayatsu:20190812191400j:plain

 

 どうせInstagramなのでトリミングするのだが、焦点距離が10㎜違うだけで圧縮効果の差は大きいように思う。

 書いたように昨日は鬱で、持ち出したレンズは更に小さい(そしてチャチい)レンズだった。それでも写真を撮る気力がなかったのに、今日は、大きいレンズでも、これだけ撮っている。

 

 あいはーと・みなとでは、以前も書いた、生活保護を受けて遊んでいられる障害者バンザイという人達が大騒ぎしていた。努力しないことを美徳とでも思っているのだろうか。

 職員の人が、見かねて、こちらの部屋を使っていただいて結構ですよと講堂の鍵を開けてくれて、そこで本を読んでいた。読んでいた本は、こちら。

となりのセレブたち

となりのセレブたち

 

 

  発行は2015年9月なので、最近のものである。篠田節子先生は「女たちのジハード」直木賞を獲ったとき、なぜ、この作品で… というようなことを仰っていて、今は、書きたかったミステリータッチなものを書いているのかと思って借りたら、直木賞受賞作の延長線上にあるような作品だった。

 中編5編が収録されていて、第1作目の「トマトマジック」を読んだところで本を閉じた。作品中の、次の一文が、なにか、この作品集を暗示しているように思える。

アートも日常的なモノ作りも、商業的な妥協の産物だってこと。そうでなければ流通することはおろか、実際の形にすることも難しいの。才能のままに好きなものを作りたいとなれば、パトロン見つけるしかないけど、今時、非現実的な話よね。

 (27ページ)

  真の欲望と現実という、この作品のテーマに触れるために書かれた文章であろうが、それが、なんとなく、篠田先生が今、置かれている状況のような気がする。

 私も、ここ(あいはーと・みなと)にいることにしがみ付いていないで、妥協して帰るとするかな… と思い、帰りのバスに乗るためにバス停に向かった。

 そうしたら、今日は、こういう雰囲気だから来ない方がいいよとLINEした友人から、私を、その場に置くのは忍びないので一緒に食事をしませんかと返信が来た。

 結局、一緒に食事をして帰ってきたのだが、瓢箪から駒ではないが、それも、ある意味、妥協の産物かもしれない。

 

 話は変わって、そのとき、その友人に聞いた話である。

 私は、以前、他のBlogを書いていて、嫌がらせのために2ちゃんねるにURLを貼られたことがある。友人のことを検索していた友人の友人が、私のBlogに辿り着き、読んだそうである。

 ある日、私の名前を出され、その人のこと知っている? と訊かれたそうである。当然のように私の友人は驚いたようだが、その話が今ごろ出てくるということに、私は嫌な予感がした。

 ギターを持っている? と訊かれて、私はキョトンとした。持っていることは持っているが、スケールを弾くのがやっとである。そして、買い替えたことがある? と訊かれて、どうして、それをと思った。実は、最初に買ったギターを、どうしても譲ってほしいと言われ、譲った金で新しいギターを買った。

 私が、そのことについて書いたらしい。書かれていたということと私の体験が一致はするものの、書いた記憶がない。

 なぜ、そのことが書かれていたということが今ごろ出てきたのかと訝しがっていると、その友人の友人が、まるで音が聴こえてくるような描写が印象に残っていると言うそうだ。

 私が物について書いた文章というのは、冒頭のカメラレンズについてのようなものばかりのような気がする。しかもカメラとは違いギターには疎い。なので、自分の文章に、音が聴こえてくるような描写があったということが、ちょっと意外だった。