身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

鬱になると落ち込むのではなく自分を否定することがある。

 私の地元(東京都港区)では神社の祭禮は秋なので(新嘗祭よりは早い)夏祭りは商店街が行なう。夏祭りといいつつ盆踊りは廃っている。神社の祭禮・商店街の祭りとも、近隣が重ならいようにしていて、今日は白金商店街の四の橋祭りがある。

 四の橋は古川(千曲川のように渋谷川下流になると名前が変わる)に架かる橋で、一の橋から五の橋まである。ちなみに、不思議と、橋の名前は「一之橋」で、交差点の名前が「一ノ橋」、バス停の名前が「一の橋」のようになっている。

 先週の魚らん商店街の祭りに続き、四の橋祭りにも、お世話になっている区の施設が出店するというので挨拶に行く予定だ。その後、足が悪くて一緒に行けないという人と食事をする約束をしている。なので、このエントリーは出掛ける前に書いている。

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 今朝は、酷い鬱に苦しめられた。目が覚めるが起き上がることもできない。この前アナウンスしたカメラレンズが届くが、玄関まで這って行って受け取るのがやっと。買うときも、あまり気乗りがしなかったが、いざ、届いてみると、買ったことを後悔するだけでなく、買った自分を否定してしまう。否定するといっても、死にたくなるというのは違う。

 買ったのは昨日だが、ときめかないのに、買うことにしていたからと義務感で買ったような感じだった。他にも洋服などを買っているが、買ったことに嫌悪感がして、できるものは、すべてキャンセルした。

 夜になり判断力が落ちていたのかもしれないが、買ったときも、軽くパニックになっていた。メルカリでは間違えて物を買ってしまって、キャンセルをしたら「迷惑行為」だと警告が来た。

 何をやっているのか判らなくなるのが昂じると、まるで、もうひとりの自分が何かをしているように感じられるようになる。後に知ったが、これは解離にを起こしているそうだ。自分の意志で行動をしていないのに、なかなか高度なことをしているのが怖い。川崎の児童殺傷事件のとき、容疑者が、普段は意識している防犯カメラを意識していなくて自分の行動も覚えていないときがあったというのは、それではないか。

 とにかく、買ってしまった、という感想とともに、悔やむどころではなく、買った自分の存在自体を否定してしまう。家や自動車を買ったわけではないのに、人生が終わったというどころではない心持ちである。先週のように、のたうち回るような身体の苦しさというのはないが、これはこれで辛い。

 昼過ぎ、トイレに立ったので無理して起きる。顔を洗って着替えても、腹は減っているのに何も食べる気がしないし、カメラレンズの箱も開ける気がしない。広義でのリビドーがなくなった感じ。

 これを書いている今は箱を開けてレンズを出し、フィルターも付けて、買ったことを、さほど後悔していない(他のレンズと焦点距離が被るので、買ったことが良かったのか、まだ迷っている)。そして、上記の世話になっている区の施設に電話をしたら、新しい職員の方に、落ち込むのではなく自分を否定しますよねと言われ、なんと的確な表現だろうと思った。

 他の職員の方は、否定的な考えを止めれば感覚も変わるというのだが、そういう問題ではない。自分を否定すると言った職員の方は自ら精神疾患をお持ちだそうである。かつて、星新一先生が、作品中で、宇宙人にさらわれたことがある人同士しか判らない感覚というようなことを書いていたが、まさに体験したことがある人しか判らない感覚だろう。

 私の目標のひとつは精神病の苦しみを描き切ることだと思っているのだが、これだけ長々と書いても的外れな気がするし、福祉施設の職員の方にも通じないのだ。まして一般の読者の方をや。先は長い。