身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

意識しないと存在が判らない。

 今では、ほとんど見えなくなったが、私の部屋はベランダ越しに東京タワーが見える。引っ越してきた当時は富士山からレインボーブリッジまで大パノラマが広がっていたが、富士山は恵比寿ガーデンプレイスができて早々に見えなくなった。

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 さて、そんな東京タワーであるが、ライトアップが変わるたびに廊下に出て全体像を見たりしてるのだが、単に風景のパーツのひとつになり、あまり有難味がなくなった。

 私は、首都高を運転したことが、自動車教習所の高速道路教習の1回しかない。なので、あの迷路のような高速で、どこからどこまで行けと言われても困ってしまう。下を行った方が早い。

 ただ土地勘というものがあって、今、どの辺を走っているというのは風景とランプの名前から判る。そして、旅行帰りのバスで、有難味がないはずの東京タワーを見付けては、あ、帰ってきたなと安心する。

 松戸に住んでいたとき、母親が自家用車で首都高目黒線を走っていると、仙台坂上にある麻布の家(母の実家)が見えると、ほら、帰ってきたよと言って、私もそれを見た。見たといっても、見ようとしただけで、本当に見たのかどうかは覚えていない。

 松戸に住んでいて何だという話であるが、しかしながら一の橋ジャンクションを通過すると、あ、帰ってきたなと思った。これも、麻布では古川橋から一の橋まで通っている首都高を意識したことがないからだろう。

 東京タワーが見えたかどうか覚えていないのも似たようなもので、地元の港区に住んでいるときは普通に見えるから意識していないのだと思う。松戸の実家に帰るとき、常磐線から小菅の町の向こうに見える、あるいは浅草越しに見える東京スカイツリーは、なんとなく意識してしまう。

 普段見ているものには違和感を感じないという、ただそれだけの話だ。仲が良い同級生には恋愛感情を感じないという話と似ている。