身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

欲望と傲慢症候群。

 先日、読んだ、鷺沢萠短編集『失恋』に『欲望』という1編があった。

失恋 (新潮文庫)

 

 次の1文は小池真理子氏の解説にも出てくる半句なのだが、解釈については当然、小池氏の方が的確かつ上手なので、古本屋で文庫本を読んでいただきたい。

ひとがひとを「信じたい」と思ったり、「救いたい」と思ったりするのは、すべて自分勝手な「欲望」なのだろうか───。そんなことを、また考えた。(新潮文庫版102ページ)

 

 私は少し前に定期入れを拾った。雨の水たまりの中で誰も拾うことがなく底に沈んでいる定期入れだった。そのとき、それを拾おうと思った精神状態については書かない。

 交番に届けに行って、落とし主に要求できる権利について説明を受けた。私は、ただ、持ち主に届いたのか判ればいいと言って連絡先だけ教えてきた。

 数日後、警察署から電話があった。若い女性の警察官が、今取りにいらっしゃいました! 喜んでましたので、きっとすぐにお礼が行くと思いますよ! とりあえず教えたくて! と声を弾ませていた。本当に弾んだ声というのを聞くのは久しぶりだった。

 私は、この女性警察官の言葉に救われた。落とし主からは何の連絡もなかったのだ。それから、落とし物を拾って交番や警察署に届けても、落とし主に届くことで満足する以外の欲望はなくなった。

 

 見返りを求めるという行為は、たしかに欲望である。どこか礼を言われないと救われないと思う節がある。しかし、最近、礼を言われたいというのと違う「傲慢さ」を体験することがあった。

persona0419.jugem.jp(魚拓・https://archive.vn/oFdTD

 

 これは私のネットストーカーの文章だが、「安心したまえ」と書いておきながら脅しており、また「別れの辞」と書きながら、いまだ粘着を続けている(Blogを転々と変え、別れの辞は少なくとも5回目)。愛情が欲しいのではなく嫌がらせをしたいという「欲望」の表れだろう。

 文章自体幼稚だが、私がブラック企業で200時間の残業をさせられたと書いたら給料を払われていたのでブラックではないとか、夜遊びをすると書いたらキャバクラ通いとか、信用状を読めると書いたら英語の伝票が読めると自慢している(鉤括弧付き)と矮小化してバカみたいである。最初は意図的曲解をしているのかと思ったが、これも書いたが、小学生並みの貧困な発想で、そう思い込んでしまうようだ。

 

 しかし、一見、辻褄が合わないように見えるのは、私の新しいハンドルネームが判るまで、noindexを入れてマスターベーションのように楽しんでいたということだ。また、Googleアナリティクスのユーザーエクスプローラで1日に2時間も見られてキショいと書いたら、その記事をFacebookでシェアしてまでユーザーIDを変えるという方策を学習し実行するようになった。

 

 これこそが「傲慢症候群」のなせる業である。以前のBlogで書いたが「ボク偉いんだもん!」という、偉大になりたい欲望(快楽原則)が、現実を直視し分相応の的確な判断を下す力(現実原則)を上回っているのだ。他エントリーを含めて上記Blogの文体にも注目してほしい。すべて命令形だ。しかも、このネットストーカーの場合、別に政治Blogを持っており、あたかも為政者になったかのような気分になり、快楽原則が高い。

 そして、私に反論されると捨て台詞を吐いて消してしまう。それは、単純に「偉いボク」という快楽原則を否定されたからである。そして、いかにもしそうなことだが、それを私がアカウントを乗っ取って消したことにしてしまう。

 快楽原則が否定されて、相対的に現実原則が高まるといいのだが、サイコパスであるから、何が何でも「偉いボク」でなくてはいけない。私のBlog友達のBlogを数十エントリー辿ってまで私の情報を漁り、それに曲解を加えてまで私に構って嫌がってほしいのだ。上のBlogだと、この辺に顕著。書いてもいないことへエクスクラメーションマーク付きの最高級の毒づきを見せている。

persona0419.jugem.jp(魚拓・https://archive.vn/Wyrem

タイトル

身の程識らずの、向う見ずな冒険。

 

結論

タイトルは読んでのとおりだが、本音も言えば”愚か者”と言いたい。

決して、精神障害なんかではない!

そして、○鹿とも言わない。

自分を識ることのできない愚か者と呼ぶ。

 

 

 他人に感謝されたい、私のネットストーカーはサイコパスだから他人に嫌がってほしい、これらのことは単純に「欲望」だといえるだろう。しかし、幼稚な人間は、欲望、あるいは快楽原則を否定し自分の考えや妄想を超える現実があったとき、現実原則を高めず、それを否定する。

 友人に、この話をしたら、「酸っぱい葡萄」という寓話を教えられた。さながら、葡萄を取る努力を放棄し、あれは酸っぱいんだと思い込むようなものである。他人に構ってほしい欲求とは別に、葡萄は酸っぱいと相手を卑下して自分が偉大でいたいという欲求があることを知った。

 

www.cyzowoman.com