身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

他人に愛されないと自己肯定感は高まらない。

 皆さん、このBlogへのリンクを貼っているネットストーカーは私に5年以上にわたって粘着してBlogを炎上させることを目的としているサイコパスなので(私への嫌がらせでTwitterアカウント凍結2回・民間カウンセラー協会資格剥奪、なのに止めない)書いてある内容を信じないでください。ネットストーカーのサイトからの流入が異様に多いので、念のため。

 


 

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(イラストは土岐麻子さん「ひよこ劇場」よりミチコ)

 

 実家(松戸)から帰ってきました。嫌な目覚めでした。かつて「酒を飲む理由。」などというエントリーをアップしたりして、このBlogの読者の方に酒浸りになるのではないかと心配をお掛けしたのですが、自宅で同じことがあったら飲んでいました。

 ものすごく睡眠自体が良くなかった。疲れが取れないし、寒気がしたりして風邪を引いたようだ。しかし、今日は、実家近所の郵便局に行かねばならない。起きたら反射的に電話を取っていた。

 いつもお世話になっている保健所の前任の保健師さんに電話。朝の慌ただしい時間に、実は郵便局に行こうと思うのですが… 後日にしようと思います、と自分で答えを出している。

 反射的に電話をしながら、答えは出ている。だから何だという感じで、賢明な対応だと思いますよ、と言われた。午前9時の仕事が始まる時間だ。当然である。ここで、なぜか私は物凄く自分が否定された気がした。

 忙しい時間帯に無意味な電話。理由は、それだけであり、それ以上でも以下でもない。いつもと違い、よい1日を、的な挨拶がない、当然である。ただ、それだけのことに、ものすごく敏感になっている。

 サイコパス・ネットストーカーのサイトからの流入が多くて本音がなかなか書けないのだけど、そして適切・的確に書けないのだけど、否定ばかりされていると、否定されることがスタンダードになるのではないかということ。

 否定されて当たり前… という思いが心を硬くしてるのだと思う。決して、それに慣れているのではない。同じことが繰り返されるのではないかという怖れ。それと同じことをしてしまうのではないかという怖れ。それが自分に向いて(それを自分にして)いるのではないかと思う。

 児童虐待のニュースを見て、虐待した親も、自分がやられてきたことだから子供にしても大丈夫だと思ったのではないかなと、ふと思った。