身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

私を生に繋ぎ止めておくもの。

 下の文章を書いてから書こうという切実な思いがなくなり死にたいほどの恐怖に襲われている。何なのだ。やはり書くことで生きることに繋がっていたいのか。

 

 夜、自律神経の乱れで寒気がしたり身体が火照ったりして一睡もできなかった。それでも疲れているので、昼には寝た。手紙を書きかけで眠るというのは、おそらく初めてである。しかし、どうしても思いのたけを書かなければという思いが強く、ゆっくり寝ていられなかった。思いというより、もっと切実なもので、書かないと死ぬという強迫観念に近いものだった。

 書き切ることはないと思うが、書き切ったときは、おそらく生への未練というものはなくなるのではないかと思うほど、命を削る思いだ。書かずに死ねない。いつも精神的な苦しみというのはそうなのだが、こういった思いというか精神的苦痛というのは、どんな肉体的な苦痛よりも酷い。

 かつてBlogを書いていたときは、いちいち大袈裟だなどとコメントする人間ばかりで、何度も書いているが、私を大金持ちのボンボンに仕立て上げ、いちいち私のワガママだと本文まで改竄して解説ともいえぬコジツケをした上に、どうやって調べたのか私の住所・氏名・顔写真まで公開する人間がいて、本当に困ったものだった。しかし、勤務先にクビを言い渡されるまで私の個人情報を公開し続け嫌がらせをするというのは常人ではないと思う。常人ではない人間が心理カウンセラーとして働いているのだから世の中は怖い。

 昨日、読者の方とTwitterで会話をしたのだが、このBlogの読者は、1年半、1日も欠かさず書いているのに、だいたい20人である(PVは毎日50ほどで酷いときは10を割り、しかも、そこにはPCのアップデート情報などを調べに来ている人が多くいる)。さすがにマイナー・ポエットを目指すといっても、これでは少なすぎだろうという話になった。

 言葉とは、読み手・聞き手がいて初めて成立するものだと私は思っている。人によっては自分が満足なものを書けば読者など要らないという人がいるが、それなら、そもそも考えるだけで書く必要はないのではないか。自分だけにしか通じない言葉は、すでに言葉ではないと思っている。

 Twitterで話をした人は、読者を増やす方法を考えてくれたが、私は、あまり精神病というものを売りにしたくはない。むろん、それを前提に書いているのだが、何が原因で、それを、どう乗り越えていくのかということを書いていきたいと思っている。

 生まれて初めて精神病院に入院させられたときは、ちょっと情動が動くと薬で眠らされて物を書くことすら許されなかった。消毒もせずに尻に注射を打たれた跡は40歳を過ぎるまで膿んだ。東大の先生に手紙に書いたら、ショックで熱を出したと返事があった。あのとき書くことが許されていたなら、よほど良いものが書けただろうなと思う。それが、今は、自由に物が書けるのだ。環境は良くなったと信じたい。

 しかし、生きることは書くこと、書くことは相手に読んでもらうことと考えたとき、ちょっと(かなり?)少ないけれど、私は、自分のことを理解してくれる読者に出会えてよかったなと思う。