身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

理性と感情のバランス。

 夏目漱石『草枕』の有名な冒頭は、こうだ。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 普通、「智に働けば~」しか知らないと思う。私も知らなくて調べた。しかも、どうせ補正されるのだろうからと「智」ではなく「知」と入力して検索した。なんか漱石の作品って山に登るところから始まる話が多いなと、どうでもいいところに目が行く。

 さて、今日は私の誕生日だが、起きたときから、まったく“誕生日らしさ”がない。昨日と同じで、起きたときにはボロボロに疲れ切っていた。実は、今も自棄とも投げ遣りとも付かない気持ちでいる。

 昨晩、ヤフオク! のアプリで、再入札を求められて入札したら即決で落札したことになって、しかし、これは自分のミスでも悪意でもないのだからと居直っていたら、今朝になって、出品者から、いたずらと勘繰るメッセージが入っていた。互いにメッセージを遣り取りして誤解は解けたので、やはり言葉というのは大切である。

 そんなこともあって疲れが増し、昨日と同じで、安定剤を服もうかどうか迷っていた。しかし、やっぱり服むと書けなくなるよな… と思う。そして、けっこう色々と抱え込んでいるので、件のお世話になっている保健師さんに電話。薬の調整は、上手くやっていると思いますよと言われる。

 これって、漱石流に言えるよなぁ~ と思ったのが『草枕』を引っ張り出してきた理由だ。

 布団から出ようとして、こう考えた。

 薬を服まなきゃ疲れるし、服んだら頭が働かない。無理に動くと結果が出ない。とかくに日常は息が苦しい。

 息苦しさが昂じると、楽に生きたくなる。どう足掻いたって楽にはならないと悟ったとき、机に向かい文章が生まれる。

 そう考えると、漱石の描く世界は病める現代社会の、私が書くものは、病める自分自身の象徴という気がする。書くことは考えること、駄目なら駄目なりに頑張る… 私のモットーであるが、そんなことを決意する時点で、すでに私は病んでいるのかもしれない。

 詩や画を生み出した漱石と違って私は文学を生み出していないから、せいぜい頑張ります。今日から私は47歳。本当に、歳を取るごとに若いときと同じクオリティーの物を仕上げるのが大変になる。

 若いときは、そんなものは肉体を使うアスリートやスポーツ選手だけだと思っていたのに、芸術でも事務でも同じなのだなと歳を取って思う。ラジオで、ある作家先生が「私も年齢を理由に引退したい!」と言っていたのを聞いた。

 歳を取ることで熟成されるとか丸くなると言われると、それは、ちょっと違うかなと思う。しかし歳を取っての苦しみは、味わっておいても悪くないと思う。病気の苦しさは、生まれ変わったら真っ平だけど。

 同じテーマで書いた以前のエントリーは、こちら。ぜんぜん、読まれていないエントリーだが、私は、自分では、この、ほろ酔い感が気に入っている(ちなみに書いた時点では飲んでいない)。

 篠田節子先生は『女たちのジハード』が売れて、違うな… と思っているらしい。筆者と読者の目論見は異なることの方が多いのではないかと思う。うん、でも私は篠田節子先生はミステリーの人だと思っているよ。

 

 

P.S. Facebookの「過去のこの日」みたいに、はてなブログの「過去の同じ月に投稿した記事を振り返りましょう。」というのを見てみたら、昨年も、誕生日にカメラを買い替えようか悩んでいる。そして結局、買わなかった。そして、今年は、同じ機種の中古品を、この値段なら買っていいかなという値段でオークションで入札した。つくづく貧乏くさい男である。