身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

もっと即物的に。

 軽い読み物を書こうとFacebookで宣言したのに、そういうものが書けずに申し訳ない。

 ここ数日、自分の立場が理解されていないということで、ものすごい孤独感に襲われている。それを読むこと・書くことで解決しようとしているのは書いている通りだ。しかし、それは書く人や読む人がいて、初めて成立するものである。Facebookの投稿も「いいね!」が付かないし、このBlogの読者も、なきに等しい。

 さらに、読んだり書いたりすることより、会話の方が、即時に反応が返っててくる。声を掛けてもらいたくて、いろいろなところ、例えば区の施設に電話をしたりしている。

 そして、何度も同じことを言って、この人、自分が言っていることが判っているのかなぁと思うと言われたが、自分で自分に言い聞かせても、なかなか自分が納得できない。

 自分が書いたことを誰も読んでくれなければ書いていないのと同じことになるように、自分で精一杯やっていると思っても、それは単なる自己満足ではないのか…。今朝、コンビニにコーヒーを買いに行ったとき、ご近所さんに高いのにコーヒーを買っているのですか? と言われ、何やら自分が贅沢、すなわち悪いことをしている気分になった。

 

 かつて、親からの呪縛が解けていなかったときには、外食ひとつするのにも親に電話で許可を取っていた。

 それは、親が、自分たちは倹しい生活をして私に仕送りをしているのに、私が贅沢ばかりしていると罵倒していたからで、ある種の遠慮のようなものがあったからという気もするが、精神的に完全に支配されていた気もする。

 今、親は頻繁に旅行に行ったりしていたことが判り、そのことが馬鹿らしくなってきてはいるのだが、そんな親でも、仲良くやっていきたいと思う。

 かつて、親が、わざわざ家族だかという言葉を使うのは、言葉にしなければならない程度の繋がりしかないから、そういう「呪文」を使うのではないかと書いた。

 しかし、そんな親でも、こちらに顔を出さなくて孤独死していたらどうすると言われると、何か行かなければいけない気分になるし、私自身も一緒にいると安心するところがある。それは「甘え」という構造があるからだと書いた人もいた。

「甘え」の構造 [増補普及版]

 

 あれだけ憎んだ親に対しても愛情があるのだろうか、不思議だ。この辺も、読んで書くことで自分に問うていかなければいけないのかなと思う。