身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

マンションと一戸建て。

 私の実家は千葉県松戸市小金原というところにある。都心からだと、地下鉄千代田線の常磐線直通電車に乗って、北小金駅というところで降り、そこからバスで10分ていどのこところだ。いわゆる団地町で、他の団地町と同様に、過疎化が進んでいる。

 同級生は皆、タダ同然になった実家の処分に困っている。東京の人間が都内に家を買えずに郊外に買ったのに、計らずしも、皆、都内に出戻っているという有様だ。

 私が小学校低学年のとき、貨物線だった武蔵野線が旅客化し、北小金駅の隣に、乗換駅の新松戸駅ができた。そこは、一戸建てがほとんどなく、駅前からマンションが聳(そびえ)えている。私はマンションというものを知らなくて、友達の家に行き、夕方、雨戸、閉めないの? と言って失笑を買ったことがある。

 今、生まれて初めてのマンション生活が25年になるが、管理は非常に楽である。管理費を払ってさえいれば、共有部分は管理組合(に委託された管理会社)が管理してくれるので、手入れをするのは専有部分だけだ。外出するときも鍵は1ヶ所でいい。

 他方、不満な点もある。共同住宅なので、当然、何かをするときには、他の住民の合意が必要なところだ。引っ越しや、家の工事をするにも、共有部分を使うことになるから、これは当然のことである。

 それと同時に、他者の要求も飲まなければいけない。目下の悩みが、再開発である。寓居は6畳ない部屋が3部屋あるだけの、いわゆる団地サイズの部屋である。再開発後に、そんな小さな部屋は作らないので、差額を払わなければならない。同じような悩みを抱えている人は他にもいて、まだローンが残っているのに建て替えというのは考えられないと言う。

 こういう、住宅の存続にかかわる話でも、自分の意見が通らないことがある。また、横のつながりというのは、往々にして個人のエゴが顔を出す。それも、自分の利益になることなら、まだ理解できるのだが、そんな無益なことをして、何が得になるのか解らない自己の欲求だ。

 例えば、定年を過ぎた当マンションの管理組合長。暇で暇で困っていて、日がな1日、マンションの前に建っていて、他人の買い物に難癖を付けたりしている。難癖をつけるという言い方は、少しきついかもしれないが、過剰な関心を抱いて買ったもの関して感想(?)を言う。

 私など、会社勤めをしていないため、家でゴロゴロしてるんだろう、1日中TVを観ているんだろうと、首根っこを捕まえて言われる。そして、ヒヒヒと下卑た笑い声を出す。煩い、余計なお世話だ、放っておけと言っても、俺は管理組合長だぞと言う。管理組合長だからなんだというのだ。

 そういう、自分の貧しい発想でしか他人が置かれた状況を推測できず、それが正しいと思っている人がいるのが困りものだ。その人は、再開発につしても、マンションの資産価値が上がるのだから反対する人がおかしいといって、前述のような理由が存在することも理解できない。

 これらの点から、一戸建てとマンション、どちらがいいかというと、私個人では、やはり、一戸建てに軍配が上がる。しかし、都心で一戸建てに住むというのは、なかなか難しい。私の実家のように、都心から、かなり離れたところに買わざるを得ない。一戸建て=郊外という図式が成り立つ。

 都心と一戸建てが両立しないことを考えれば、築年数が古くてオンボロで狭いマンションでも、交通至便のところに自宅があるというのは恵まれているのかもしれない。ただ、毎度、書いているが、いつ、この生活が終わるかと恐々として過ごしている。

 

P.S. マンション内での「事件」を描いた赤川次郎さんの小説は、こちら。「マンションあるある」な事例ばかりで、面白いです。

ホームタウンの事件簿 (角川文庫)

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