身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

酒を飲む選択。

 昨日、よく誤字がなく書けたなと自分でも驚くほど酩酊していた。かつて、酒を飲むのは快楽を求めるのではなく、それなりの理由があるからだということを書いた。以前、飲む理由があっても飲まない選択をしたときのことを書いた。

 

 昨日は、自分に負けた。そんな、美味いと思っていないものを飲むのだから、理屈を付けて飲むのとは少し違う(「少し」と書いたのは、引用したエントリーに書いたように、境界線がハッキリしないからだ)。昨日は、天気も悪いし、きちんと酔えないのは、自分でも解っていた。

 酒を飲む選択をして、当然、後悔はある。今回は、不思議なことに時間を無駄にした感覚はなく、もっとも後悔したことは金を使ったことである。それでは、前回と違い、酒を飲むことで何が良かったのか、考えようと思う。

 引用したエントリーでは、酒の力を借りて疲労を誤魔化さず、キチッと、その原因と向かい合っていこうと書いた。それと矛盾している気もするが、酒を飲むことによって克服できる苦痛もあるかもしれないと、昨日、酒を飲んで思った。

 苦しんで苦しんで酒を飲んだのだが、何を苦しんでいたのか、正直、自分で判りかねていた。自分で、区の施設の職員に、しつこく犯罪者呼ばわりされたことが原因だろうと思っていた。しかし、酔いから冷めたら、それとは違うということが見えてきた。

 犯罪者呼ばわりされたことは、木曜日の通院で、だいぶ苦痛が軽減された。主治医に、掛けるべき声は「物を盗らなくて良かったね」だろうと言われた。そして「とんだ災難でしたね」と言われた。

 実は、「とんだ災難でしたね」という言葉は使ったことがないので、どういうシチュエーションで使われるのか、帰ってから調べた(笑)。「とんだ災難」と敢えて言葉にすることで、大変でしたねという同情の意味を表わし「でしたね」と過去形にすることで、終わってよかったねと慰める言葉らしい。

 さて、それが原因でないとすると、いったい、酒を飲んだ動機は何だったのか。飲み始めたときは、皆目、見当が付かなかった。しかし、ひと晩寝て酔いが冷めたら、明日、実家に行くことがプレッシャーになっていることに気が付いた。親の死んだ後の食い扶持とか、実家に行って何を話すかということを、夢にまで見たのだ。

 これは、酒を飲まなければ、きっと見えなかったと思う。乗り越えるものが何か判っているときは、きっちり対峙するが、それが判らないときは、飲むことによって、向かい合うべきものが見てくることがあるようだ。酒飲みは、よく、酔眼朦朧ならずという言葉を使う。当然、酔眼朦朧なりを馬鹿にしたいい方なのだが、ある意味、当たっているのかもしれない。