身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

どんな人に憧れるか。

 Twitterでフォローいただいている方はご存じだろうが、朝から大不調だ。Twitterでツィートした以降に腰も痛み、ロキソニンを3回服んだのに、まだ治らない。痛さとしてはギックリ腰なみである。ただ、ギックリ腰と違い、いつからなのか判らない。

 さて、私が拝読させていただいているBlogに、創作を載せていらっしゃる方がいる。なかなか面白くて、拝読させていただいた上に評を書かせていただくのだが、次の作品は、必ず、それを克服して、さらに、それ以上のことが実現されている。伸びしろが半端ではない。

 

 私はネットストーカーの被害に遭いハンドルネームを変えたのは周知のとおりだ。古いアカウントから今のアカウントが判らなければいいという、一方的なトレーサビリティーを保っているのだが、前回のアカウントも私の下の名前を書いただけで発見された。3年間、同じアカウントで毎日更新していたのが逆に仇になった。

 これも何度も書いているが、佐藤正午『身の上話』の武井輝夫みたいな奴である。「執念深い性格であることをお忘れなく」「遠回りしながらも執拗に」「5年かかってやっと見付けた」これらのことを書いて変なことを書いていないと思う奴である。

  この本、前Blogをお読みの方は聞いたことがあるタイトルだと思うが、そこから取った名前である。前BlogはGoogleの検索結果からオプトアウトしているので、今はGoogleの検索には引っ掛からない。このエントリーもする予定だ。

 もう10年も「執念」で「執拗」に付きまとわれている。揚げ句の果てに私の家の特徴を挙げて「何時でも行くことが可能だ」と書いてきた。さすがに怖くなって警察に相談に行った。そういう行為をしたことが自慢で、以前、自分の個人情報や顔写真までアップしていたので勤務先にも言ったのだが、勤務先からは警告をしたがストーカー行為を止めないのでクビにしましたとだけ返事が来た。

 あまりの恐怖に夢中でネットストーカーのことを書いてしまった。とにかく、普通にBlog止めますと書いたのでは、またしつこく付きまとうと思うので私が死んだことにした。

 それでも、Facebookが更新された、生きているぞ! などと書いてきた。警察では、なぜ更新していると判るんですか、把握できないほど友達が多いんですかと訊かれたが、実際に面識がある人と、その友達100人のみの公開にしているし、ブロックもしている。おそらくプロフィール写真を変えたことを、そう書いているのだろうと答えた。

 ちなみに、TwitterInstagramもアカウントを取り直したのにFacebookはダブルアカウントで作り直したアカウントが閉鎖されてしまった。どうしてネットストーカーの偽アカウントが凍結されないのか。ちなみに、知らない人もいるようなので書くが、Twitterはアカウント名を変えても@ツィート内のアカウント名も新たなアカウントに書き換えられる、そして私はネットストーカーから嫌がらせのDMや@ツィートを大量に送りつけられている。

 やはりネットストーカーのことから離れられない。前Blogでもネットストーカーの恐怖を散々に書いてきたが、それさえも、ネットストーカーはそれを見て留飲を落としただろうと思うと、恐怖と同時に気持ち悪くなる。

 

 さて、今度こそ本題に戻って創作をアップしている方についてである。私の前Blogの方にお悔やみを貰った。実際には私は死んでいないのだが連絡手段がない。習慣的にBlogを書いている方でもなく、Blogのコメント欄に入れておいたのだが、しばらく気が付かれなかった。

 それが、ある日、以前、評をいただいた方が亡くなったが、また新たな読者ができたと書いてあった。私は、これを読んで呻った。アカウントを変えたことを出さずに私が新たなアカウントを使い始めたことを表現しているからだ。背景を知っている私にしか通じず、しかも、他人が読んでも違和感を覚えない。

 創作が、どんどん良くなっていくこともあり、この人は頭が良いんだな… と感服した。そこに憧れている私がいた。

 警察官に調書を取ってもらうと、ものの見事にまとまった文章ができる。テンプレート的なものが頭の中に入っていて、それに当てはめているようでもあるが、そんな、応用する部分が少ないことでも、頭の良し悪しが出る。

 私は中学時代の体育の成績はずっと1だった(笑)。高校の体育の授業は何のカリキュラムもなく、ただ走れだったので、根性で走り抜いて成績は上げたが、しかし、運動神経がいい人への憧れというのはない。

 同様に異性にモテる人への憧れもない。社会的地位がある人への憧れもない。金持ちには嫉妬はあり、なりたいとも思うが、私生活を犠牲にしてまでなりたいとは思わない。

 そう思うと、やはり、私が憧れる人というのは文章が巧い人で、それはすなわち頭が良い人への憧れである。あと、教養がある人にも憧れるが、これは、受かっても大学に行かせてもらえなかったことの裏返しだろう。