パンのみに生きられないもの。
Twitterでフォローさせていただいているアカウントで、ある作家志望の知人についてのことが呟かれている。上手く文章にできるか判らないが、なんか思うところがあった。
その人が何をして食べていたのか判らないと聞いて、ふと思い出したのは村松友視の『作家装い』という作品だ。
偽物の作家が温泉宿で夜ごと宴会をして金を払わずに捕まったという新聞記事を見て、村松が現地に検証に行く話である。
そこで村松が目にしたものは、宴会といっても温泉宿に何泊もしていれば普通に掛かる食費だったり、同人誌で活躍していたという「偽物」の作家の姿だった。
偽物の作家は同人の中で活躍している風もあったし、宿代を払えなかったがために偽物扱いされたのではないかというニュアンスを含む書き方だったと記憶している。
村松は、作家としてデビューする前の、妻の実家の温泉宿で目が出なかった純文学作品を書いていた自分、あれこそが作家の姿ではなかったのかと回顧する。
ここで私が思い出すが、私が常々、良く思っていないブロガー氏である(ネットでは既に悪い意味で有名人なので驚いた)。
ブロガー氏はありもしないサクセスストーリーを作り出し、金を集め本を出し、挙句の果てにハウツー本を出しただけで作家を名乗り始めた。
他方、私は、夜眠れないと区の精神障害者自立支援センターの職員に相談したとき、机に向かって作家気分に浸れるのにと言われ殴りたくなった。
私が地に足の着いた生活をしているかというと、そうとはいえない。勤めては精神病を再発し、今は障害基礎年金月に6.5万円と親の金で細々と生活している。
しかし、私は、箔付けに作家という肩書が欲しいかと言われると、うーんと悩む。作家になりたいのではなくて書くものがあったから作家になったんですという作家が多いが、やっぱり、そういうものだと思う。
そういえば、沢木耕太郎氏も、なかなか作家と名乗らなかった。やはり、作家というのは、書けるものが書けるようになってから名乗るものではないか。
私が村松友視を知ったのは、さる同人の先輩としてのことだったが、そこも何か名誉のようなものが欲しい人の集まりになり、お家騒動がマスコミにまで取り沙汰されるようになって同人を辞めた。
もし、作家という言葉が食うに困らない人が名誉のために使うモノだとしたら、なんか違うという気がする。
世に出なかった純文学作品を書いていたときの方が作家らしかったと思う村松友視のように、それは、金銭や社会的立場とは別の次元で存在するような気がするからだ。
「作家装い」と、それ以前の純文学作品を含む作品集は、こちら。