身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

書くことは考えること(村松友視『作家装い』を思い出しながら)。

 昨日、かなり精神的にも肉体的にも消耗してしまったので、今日は疲れと安堵で気が抜けている。しかし、実は、今でも頭痛がする。そして今日は精神科通院の日。机に向かっていたのだが力が入らないので、ブラブラと三田から赤羽橋まで歩く。

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 東京は雲一つない日本晴れ。普段は緊張で汗をかくのだが、今日は余裕・余裕。しかし、歩いた歩数は6,000歩。最近、1日に1万歩どころか1日に1,000歩も歩いていない。さて、三田といえば、私が物心ついた40年以上前から、旅館街がある。

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 さすがに、古い建物は、これしか残っていないが(この旅館も新館というか本館が別に建っている)昔からJTB指定旅館になっていた。最近になり近所に地下鉄の駅ができたが、それまでは最寄りのJRの駅から歩いて10分以上かかっていた(東京駅などからバスはあるが)。

 逆に、様変わりしたのは慶應義塾東門。「門」という名の通り、鉄製の見すぼらしい門が建っているだけだった。それが、今は、こうである。門を入ってから校舎までの道の石畳だけが、辛うじて、当時の面影を残している。慶應義塾信濃町キャンパスも似た建物になった。

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 ここまで写真を載せて、今回は観光案内のエントリーにすればよかったと思った。それには撮れ高が足りない。なんせ6,000歩しか歩いていないのだ。しかし、冒頭に書いたように、力が抜けてしまっている。

 

 気を取り直して本題に入る。このBlogのディスクリプションの最初に私は「書くことは考えること。」と書いている。このディスクリプションって、Googleクローラー以外、読むもの(人)がある(いる)のかな。

 私が、この言葉を初めて知ったのは、村松友視『文化を考えるヒント』だったと思う。私は、本当に本を読まない人間で、昨日の芥川賞直木賞も誰が受賞したのか知らない。誰か判らないだろうから知ろうという気もない。実は、村松友視という人が直木賞作家であることも知らなかった。

 初めて村松友視氏に会ったのは新橋の銀座口、土橋近くにあるバーだった。昔は文壇バーというものがあって、その生き残りのような数軒ある店のひとつだった。作家という人たちは、そういう店に行くらしいと聞いて興味本位で行った。その店は、当時、私が住んでいた家の向かいにバーがあるという設定でドラマを作ったラジオ局に聞いた。

 そこにいたのがムラマツトモミという人だった。聞くと売れっ子作家だという。たしかに、帰って雑誌を引っ張り出すと、色んな雑誌にも彼の名前があった。しかし、まだそのとき、少し前に観た田村正和さんと篠ひろ子さんW主演のTVドラマ「カミさんの悪口」の原作者であるとは知らなかった。

 これは、以前、書いたこととダブるが、その店のマスターはイギリス人と日本人のハーフで、父親は宣教師として来日していたため、戦時中、収容所に入れられ、その賠償金で店を始めたということだった。お姉さんと共同経営だったのだが、正真正銘のクリスチャンということで、お姉さんは酒を出す店を始めることに最初は反対したらしい。

 私は神田外語の学生だったため、英語の教材を抱えては学校の帰りに店に寄った。新橋というのは神田と麻布を結んだ線上にある。当然ながら、マスターの英語はネイティブである(名前も当て字の漢字があるが日本語ではない)。発音の他に、同義語のニュアンスの違いなどを教わった。

 その後、私は慶應義塾と関わりがあり、OBである村松友視先生に再会することになる。先生、Tで会いましたよねと言うと、昔のことだから覚えていないと言う。その後、他の店で何回か顔を合わせているが、そのたびに覚えていないと言う。

 売れっ子作家として変なのに付きまとわれては困ると思ったのだろうなと思ったのは後々になってからのことだ。デビュー作からし夏目雅子さん主演で映画化されているくらいだから、流行作家だったのだろう。私は、流行に疎くて文学に疎くて、そして若かった。吉祥寺に行くたびに先生の家に寄った。

 近年、先生は歳で門まで出て来られなくなり、奥様も大変だと言うようになった。そのため、このサインを貰ったのが先生の家に行った最後である。友人にも、もう行くなと言われている(笑)。

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 出世作のタイトルが『私、プロレスの味方です』である。文壇では村松友視はチャラいと思われていたらしい。村松友視自身、高名な作家に、文学者の風上にも置けないと言われたと何かの著作で落ち込んでいた。私は子供のときに本を読むのさえ禁じられていたが、村松友視という作家を知って興味を持ち読み始めたとき、叔父に、そんな下らないものは読むな! と怒鳴られた。

 そんな村松友視の純文学作家としての原点は『作家装い』という作品にあるという。これを書いている今、友人から引っ切りなしに電話があり読み直す時間がないので(無責任な!)私が他のところに書いた要約から引用すると

「作家装い夜毎の宴」という新聞記事を見た筆者が、群馬県の梨木温泉に検証に行くと、実は作家に憧れた失業者が宿代を払うことができなということだった。それでは偽物の作家と本物の作家の違いは何かと筆者は考える。

 とある。本当に、こんなことで良いのかなぁ。

 例によって私なりの主観の入った記憶だと、筆者は、作家とは読者が何人いれば作家なのか、作家らしい風貌とは何かなどと考える。作家とは生き方であり作品がなくても作家は作家というような表現が出てきたのも、この本ではなかったか。

 これも、そういう言葉が、どこかに出てきたと思うのだが、村松友視という人は、自分がベストセラー作家であることに「居心地が悪い」と感じていた。奥様の実家が温泉旅館で、まだ作家としてデビューする前に奥様の実家に引きこもって新人賞応募のための純文学原稿を書いていて、そのときの自分の方が作家らしいと感じる。

 結局、この作品の結末は、その失業者を少なくとも旅館の仲居は本物の作家だと思ったのだから、作家に本物も偽物もないのではないのかということだったと思う。電話が煩くて気が散っているし、もう、この作品を読んだのは10年以上前だったので、まとまりがなく表現が回りくどいが勘弁していただきたい。

 さて、問題は、この後の村松友視の作品の展開である。この系統の作品を『偽日記』・『鎌倉のおばさん』と書き進め、それによって泉鏡花賞を受賞している。あるいは、村松友視という人物は、これらの作品を世に送り出したことで「本物」の作家になったといえるのかもしれない。

 かつて、私が物を書いていると知った人間に、芥川賞が獲りたいのですかとか印税生活に憧れがあるのですかとか言われて非常に不快に思ったことがある。くれるというのなら貰うけど、私はサラリーマン時代も、サラリーや出世のために仕事をしたことがない。

 私は、報酬や成果というのものは、した仕事に対して、当然、付いてくるものだと思っている。前々回あたりの芥川賞に関するニュースで、受賞作家が、どうしたら芥川賞を獲れるのですかと訊かれて、そんな志で書いている作家はいないと思うと答えていた。きっと、文学賞も同じことなのだろう。

 私が村松友視を「先生」と呼ぶのは、その姿勢と忍耐強さに感服するからだ。自分のルーツを探求する心を失わず、ベストセラー作家になっても、そんなものはどうでもいい、としなかったことに対して尊敬している。

 何回も書いているが、私は、自分が書いたものに、売れて欲しいとか大衆受けしてほしいとは思わない。ただ、私が解決しようとしているテーマについて、きちんと理解してくれる人がいて欲しいと思っているに過ぎない。そのために、きちんと考え、きちんと書いていきたい。慶應義塾と旅館を見て、そんなことを思った。

 

 『作家装い』と、それより以前の純文学作品『千駄ヶ谷』『上海ララバイ』が含まれる自選作品集がこちら。

村松友視自選作品集