身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

認知の歪み。

 今日は来客もあり自宅で読書。あいかわらず「あの家に暮らす四人の女」を読んでいる。昨日、杉並区と言われても見当が付かないと書いたが、生まれも育ちも杉並区という主人公・佐知も、同様なことを感じている。

東京で生まれ育ったとはいえ、佐知は六本木にほとんど行ったことがなく、なにやらきらびやかで、夜になるとみんなクスリをキメていそうだなあ、という程度の知識しかないのである。むろん、それは誤った知識なのだが、東京は広く、杉並区の自宅で刺繍ばかりしている佐知にとっては、テレビで映しだされる六本木がほぼすべてなのだ。

 クスリをキメるというのは懐かしい言い方だが… 私も杉並区というと中央線と善福寺川が通っている住宅地というイメージしかない。そして主人公は、六本木で暴力事件を起こし、実業家として成功している人もいる「半グレ」なる反社会的グループを構成する主立った人々が杉並区か世田谷区の出身であると知り、たいそう驚く。

 なんですって、と、佐知は頬をはたかれたような思いがしたことだ。彼らと佐知は年齢も近く、では佐知が思春期やら、あったのかなかったのかわからぬ青春やらを過ごしているあいだ、彼らは同じ杉並区でガツガツぎらぎらと野心に満ち、六本木進出を狙っていたということなのか。稼いで、いい車乗って、いい女抱きてえなと身の内をたぎらせていたのか。

(中略)

 野心や向上心の欠如、もっと言えば気概の欠如は、東京もんの特徴ではなく佐知の特徴だったのである! なんという残酷な事実だろうか。知りたくなかった。(中公文庫版31ページ)

 これは、ある意味、読者の認知の歪みを利用したものだ。六本木に近い南麻布の仙台坂上で生まれた私の周りに、そんなギラギラした人はいない。東京の人間には杉並区や六本木という土地の特徴を際立たせ、地方の人間には、杉並区や六本木は、そういうところだと印象付けている。

 佐知と年齢が近く、しかし六本木に近いところにいた私でも、なんとなく六本木にいた素行不良の人間は、若いときに渋谷に屯していた人間が成長した姿であり、そう考えると世田谷区出身の人が多いように思われる(私の価値観からすると、世田谷区は、とんだ、とばっちりだが)。

 実際、東京は広い。田園調布の人に、川の向こうは川崎なんですね… と言うと、逆に浅草って言われても判らないからねと言われた。私は松戸市の、さらに千代田線の直通電車しか止まらない駅からバスで20分というところに住んでいたので、嫌でも上野・浅草・北千住あたりは突っ切ってこなければいけない。

 松戸市は東京ではないと言われれば身も蓋もないが、書いたように、当時の松戸市というのはリトル・トーキョーといった感じがあった。行ったことはないが、埼玉の和光市なども同じ状況だったという。

 こういう、思い込みや偏ったサンプリングというのは土地柄などでなくても存在する。例えば、今どきの若者、最近の年寄りというのは年齢による差異だが、それは男女の間でも存在する。

 ネットというのは便利なもので、杉並区というのは、どんなところだろうかと調べていたら、思わず、のめり込んで、色々な区の立地条件などを調べてしまった(杉並区、住みやすそう…)。そして、自分の思い込みが正しいのか、つい、検索してしまった。

 私の周りに離婚した女性は多いのだが、離婚した男性というのは、ほとんどいない。それで、私は女性の方が離婚率が高いとばかり思っていたのだが、これも、調べたら、そんなことはないのだ。しかも、私の年齢層だけでなく、どの年齢層に関してもだ。(最新のデータが平成21年で平成元年度がないのだが。)

www.mhlw.go.jp

 

 しかし、こういう統計を見ても、あまりに曖昧模糊としていて、あまり、それに合わせて自分の価値観を補正しようという気はしない。半グレを構成する主立った人々が杉並区か世田谷区の出身である、というのも小説の中でのことであって、本当かどうか判らない。

 同様に「野心や向上心の欠如、もっと言えば気概の欠如は、東京もんの特徴」というのも、本当か否か判らない。この小説では否であると書いているけれど、私には、否というのは否、つまり、東京の人間は、おっとりしていると思っている。

 つまり、小説家にとって、本当はどうだっていいことなのである。杉並区や六本木に住む人が、それは違うと思っても、それ以外のことに住む大方の読者が、そうなんだと思えば、それはそれで真実になるのだ。そんな私でも、佐知に「野心や向上心の欠如、もっと言えば気概の欠如」という共通項を見付けて、小説に書いかれている佐知の価値観に真実味を覚える。

 小説に比べてプリミティブなところでいえば、例えば○○のよう、と言うだけで、○○は、そういうものだと決め付けているのであって、それが統計に裏打ちされた真実であるかどうか、知る由もない。しかし、それが真実として語られているのは、それはすなわち、語った人・それを理解した人の認知が歪んでいるのである。