身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

事務のプロ。

 机に向かっても、一向に勉強というか仕事というかが捗らない。課題を熟(こな)せば良かった学生時代が懐かしい(勉強なんて嫌いなものに決まっているから長時間、机に向かうというのは無意味に過ごしているに決まっていると大学に行かせてもらえなかった苦い思い出があるが)。そして、会社での仕事も、机に向かえば向かうだけ捗るものだった。

 私は事務系の専門職だった。職業としては、貿易事務とか貿易実務といわれるものである。当時の労働者派遣というのは今と違ったもので、専門家しか派遣することができなかった。

 私も、その中のひとりで、時給は20年前で3,200円だった。先日、求人サイトを見てみたら時給1,000円とかになっていて、なんで、そんなに安いの? と、昔いた派遣会社に訊いてみたら、皆が憧れる職業だから応募者が多くて… という、ふざけた答えが返ってきた。

 ふざけたというのは暴言でもなんでもなく、憧れだけでできる仕事ではない。今でも貿易実務検定というのがあるが、私のころは商業英語検定といって、貿易実務+ビジネス英語の能力が試された。

 それも、当時は難関といわれ、私はB級を持っているのだが、努力したんですね… と言われた。頭の良さは関係なく、努力が大事な資格である。今の試験は、英語科目がない分、易しくなっているはずだから、それを取ってから仕事に就けよと思う。

 貿易事務が一般事務と違う、大きな点は、読解力が必要ということである。買い手の代わりに金を立て替えた銀行から信用状(L/C: Letter of Credit)というものが回ってくる。文字通り、クレジットカードの手紙版である。

 ただし、クレジットカードと違うことは、決済に当たって、売り手にも買い手にも、やることがある。時には兆という単位の金が動くのだから、変な商品を掴まされても困るし、払うのも慎重になる。

 私は輸出を担当していたから(日本は輸出国なので、輸出を担当する人は輸入を担当する人の10倍前後いる)その信用状なるものが、買い手の取引銀行(開設銀行)から、私の会社の取引銀行(通知銀行)を通じて回ってくる。それを受け入れることを接受という。

 クレジットカードの番号や有効期限のように、番号や期限は、当然、チェックする。大きい会社だと経理部の外為課が行なう。さらに大きい会社になると、その下に接受係という部門がある。私が最後にいた会社は小さかったので(といっても一部上場企業だが)経理部が接受してもチェックは私の部署が行なっていた。

 そこに、やるべきことが書かてれいるのだが、その通りにやっていたのでは、だいたいにおいてトラブルになる。簡単にいうと客(厳密にいうと客の取引銀行)が難癖を付けて払わないのだ。

 なので、何を考えて、こういうことを書いているのかな… ということを考える。例えば原産地証明書を用意しろと書いてあるとする。客へのアピールもあれば輸入通関に必要な場合もあるし、免税のために必要な場合もある。

 なので、その国の輸入規制を徹底的に調べる。また、同時に、自分の国の輸出規制を調べる。さながら「校閲ガール」である。ちなみに、私は出版社にいたこともあり、やはり小さい会社だったので校閲はおらず編集者が校閲をしていたが、あんな編集・校閲の人間はいない。

 ここで一番、大事なのは、自分の国の輸出規制である。実は、私はココム規制の時代もキャッチオール規制の時代も先進的な工業製品の輸出をしていたのだが、危うく引っ掛かりそうになったことが何度もある。同じ部署の先輩は、私の入社前だったが、引っ掛かった。大ニュースだったのを覚えていたので、それと隣り合わせであることに驚いた。

 自分たちが輸出をするのが大変なら、相手が輸入をするのも大変なはずで、それを見越して動かなければならない。意味なく難癖をつけるということは、滅多にないと思う。今はネット通販が盛んになってきたので買った人なら判るが、売り手が商品を発送しただけでは取引は終わらない。

 その品物の性能が正しいことは当然だが、なかなか届かないとか、破損して届いたとかでは困る。これも海外通販=個人輸入が盛んになってきたので経験がある人もいるかもしれないが、なんでか知らないけれど輸入関税を取られたという人がいるかもしれない。

 売り手としては、やはり、買い手に損な買い物をしたと思ってほしくない。この辺は、輸出してしまえば終わりで営業に丸投げをしてしまう貿易事務の人がいるが、私のスタンスとして、海外営業(貿易実務の世界では「契約」と呼ばれる)の手は、なるだけ掛けたくない。

 会社対会社の取引だから、だいたいにおいて買い手も輸入業者である。それを、また、自分の客に売るのだから、自分のところに来るのが納期過ぎなら、客には約束した期限に品物を引き渡せられない。これも、ネット通販で経験した人は多いだろう。

 私が扱った品物で大きかったのは、鉄鋼とカメラだった。運が良いのか悪いのか、香港返還のときに私は香港担当で鉄鋼を扱っていて、九龍城の跡地に返還までに団地を造らなければならないというのがあった。それは何十年に1度のことでいいのだが、問題はカメラである。私はアメリカを担当していて、クリスマスまでに最終的な個人の客にカメラを届けなければならないということが毎年あった。作ってから、いかに早く安く届けるかというノウハウ(物流戦略)が各社にあるのだが、企業秘密に触れそうなので止める。

 なんか、長々と書いてきたが、午後8時半を回ったので〆に入る。このような仕事をして、私がいちばん嬉しかったのは、やはり、客からのフィードバックだ。社交辞令として、どの客もクリスマスカードなどは送ってくれるのだが、私はプレゼント&電話を貰って感激した。

 しかも、外国人なのに、日本語で架けてくる(笑)。まぁ、日本担当なのだから日本語は通じるのかもしれないが、貿易における公用語は英語である(ちなみに郵便における公用語はフランス語である)。営業ではなく事務に架かってくることは、なかなかない。同僚は、その同僚の担当者が覚えた日本が使いたいのだと言っていたが、それは照れ隠しだろう。

 経理とかOA事務とか、他の事務職が、何をモットーにしているのかは知らないが(私の下仕事をしてくれた一般事務の人は、いかに正確に早く(Surely & Speady)処理するかに血眼になっていた)貿易事務のモットーは、客への思いやりである。