身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

有難み。

 まだ実家で母の手伝いをしている。金曜日にショッピングモールに行ったときの話で、いろんな人に同情されている。いや、私が同情されているというより母が非難されている。

 自分が行きたい店にも入れなかったと言うと、もっと根幹的なことだと皆、口を揃える。3時間近く自分に手取り足取り付き合わせたのだから感謝の言葉ぐらいあるべきだと言う。

 母に自分が何をしているのか思い知らせた方がいいと言うので説教ををすると、なんで私に感謝しなくてはいけないのかと言う。

 当たり前のようにしているから有難みがないのではないかと言う人もいた。父や叔父が亡くなったときも、普通に生まれてから死ぬまでの全ての戸籍謄本を取り銀行の残高証明を取り税理士に引き継いだ。人によっては戸籍すら取れないという。それを普通にやってしまうから有り難みがないのだと言う。

 今日も母に付き合い買い物に行った。そんなの行かなくていいですよと怒りを顕わにする人もいる。やっぱり甘いのかな、私。

習慣とは強制されるもの。

 まだ実家で母の手伝いをしている。買い物の同行などしているのだが、年を取ると買い物も一大事である。

 運送業界で社会人スタートを切った私がいうのも何だが、工場から出たものが倉庫に入って店頭に並んで個人の宅に来るという合理化されて出来上がったシステムが、なんとなく非合理的に思える。コールドチェーンなど考えれば恐ろしい設備である。しかし、それを止めては食べるものも手に入らない。買い物は習慣というより、行かなければならないものである。

 私など寓居が入るマンションの1階がコンビニで、不思議なことに近所のスーパーより安いものが多いという環境にいるので、スーパーなどに買い物に行く頻度は低い。なので、それが習慣になっていない。

 同様に、通勤というのも習慣というより強制である。通勤が苦にならないのは私は会社までドアートゥードアで20分という環境にいたせいかと思ったが、やっぱり、通勤というものは強制させられるからするもので、リモートワークなどでも成り立つ仕事が多いというのは悪しき習慣だったのではないかと思えてきた。

 さて、自分にはない習慣の話である。マスクの着用が半ば義務付けられて半年以上が経つが、今でも忘れることがある。先日、渋谷に行ったら駅前で「コロナは風邪」というデモをやっている人たちがいて(あの政党の人ではないみたい)、これだけ大声で怒鳴られるとマスクをしていても飛沫が飛んでくるのではないかと不安になる。これも、マスクをさせる強制力といえるだろう。

 あと、習慣というか慣例というか、我が家には一昨年、父が亡くなるまで仏様がいない?家だった。なので、尊敬しがたい父親だったせいか線香を上げるとか供え物をするという感覚がなく、そもそも、どうしていいのか判らない。結婚式や葬式への出席回数も極端に少なく、これも困ったものである。

 また、50年近く生きてきて、備わっていないのは自分だけのようだと気が付いた習慣がある。「いただきます」をするときに両手を合わせない。さる友人が海外に行ったときに食事の前に手を合わせるか否かを日本人かどうかの目安にすると言っていた。また、TVドラマなどを見ても、登場人物は食事の前に必ずと言っていいほど手を合わせている。

 この習慣だけは、一緒に食事に行った人に不快感を与えなくても身に着けたいと思う。

昨日は大変だった。

 一昨日から実家に来ている。87歳で人工股関節を入れている母の面倒を見たり溜まった事務を熟すのが物凄く大変なのだが、ネットストーカーが金を集(たか)りに来ているような言い草で、散財に対する文句を言われるのが嫌で来ないなどと(幼稚なので「何せ、ずれた金銭感覚の持ち主だから」と見てきたように書いたり「お小言」など「おこちゃま言葉」を書いている)を「事実」として書いていて、嫌な気分がして書けなかった。それだけ気が弱っていた。下に引用するが、月の生活費5万円で暮らしてみろ。また、これも事実として、物書きは全員、村上春樹と同じ仕事習慣を持っているかのように書いている。警視庁を警察だと知らなかったり、夜遊びがキャバクラ通いになってしまうように、物書きはすべて村上春樹になってしまうほど、本当に頭が悪いのだ。

daisukikana.livedoor.blog(魚拓:https://archive.vn/VIzQV

 

 ちなみに、なぜネットストーカーが、私が豪遊しているなどというのか、精神科医ではなく心理学者に聞いたところ、それは「傲慢症候群」だけでなく「投影」というものらしい。自分がそうしたいと思ってできないことが他人に向くようである。オウム真理教や政治家について頻繁に書いていることも、自分も同教信者や彼らのように特別な存在でありたいということの投影のようだ。そして、やはりサイコパスであることが指摘された。目立ちたくて大罪を犯して一生、牢屋に入っていろといいたいが、一生、娑婆には出られないが刑務所より病院行きの方が可能性が高いという。

 

 さて、実家から車で10分ほどのところにショッピングモールができた。過疎化が進む私の町と違って大きなスーパーマーケットや鮮魚や青果の専門店が入っている。また、どうして、こういうテナントのチョイスになるのか判らないが、一例でもユニクロドゥクラッセとワークマンとH&M無印良品が入っている。

 私が住む町から巡回バスがあるのだが、母がモタモタしていてバスが出てしまった。ショッピングモールまで歩くという。同年代の人間と歩くのなら苦にならないが、そんな母に付き合って40分かけて歩き、その時点で疲れている。

 買い物は母だけがした。私は荷物持ちだ。行ってみたい店にも行っていない。2時間かかった。帰り、喫茶店に寄ろうと言ったら拒絶された。荷物が3㎏あるので、せめてタクシーで帰ろうと言ったら怒鳴られた。私は頭がガンガンして立っていられなくなり、1人で喫茶店に駆け込んだ。そして落ち着いて母を探しに行ったらいない。インフォメーションカウンターにも連絡がないという。

 最終の循環バスまで探し回ってから帰る。疲れて降りられずバス停を乗り過ごしてしまう。そして、帰ったら母は実家で買い物を広げている。1人で循環バスに乗れないと言っていたので、おそらく私にはタクシーに乗せたくないが自分はタクシーで帰ってきたのだろう。おかげで丸1日たっても、まだ頭がガンガンして薬を服んでいる。

 何か言ってやりました?と知人に訊かれ、特にと言ったら優しいと言われたのだが、甘いのやらなんなのやら。今日、ちょっと飲食店に入ったのだが、飲食物が触るところを平気でベタベタ触っているガキがいたのに注意できなかった。それを叱ってくれた人には礼を言えたけど。