身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

習慣とは強制されるもの。

 まだ実家で母の手伝いをしている。買い物の同行などしているのだが、年を取ると買い物も一大事である。

 運送業界で社会人スタートを切った私がいうのも何だが、工場から出たものが倉庫に入って店頭に並んで個人の宅に来るという合理化されて出来上がったシステムが、なんとなく非合理的に思える。コールドチェーンなど考えれば恐ろしい設備である。しかし、それを止めては食べるものも手に入らない。買い物は習慣というより、行かなければならないものである。

 私など寓居が入るマンションの1階がコンビニで、不思議なことに近所のスーパーより安いものが多いという環境にいるので、スーパーなどに買い物に行く頻度は低い。なので、それが習慣になっていない。

 同様に、通勤というのも習慣というより強制である。通勤が苦にならないのは私は会社までドアートゥードアで20分という環境にいたせいかと思ったが、やっぱり、通勤というものは強制させられるからするもので、リモートワークなどでも成り立つ仕事が多いというのは悪しき習慣だったのではないかと思えてきた。

 さて、自分にはない習慣の話である。マスクの着用が半ば義務付けられて半年以上が経つが、今でも忘れることがある。先日、渋谷に行ったら駅前で「コロナは風邪」というデモをやっている人たちがいて(あの政党の人ではないみたい)、これだけ大声で怒鳴られるとマスクをしていても飛沫が飛んでくるのではないかと不安になる。これも、マスクをさせる強制力といえるだろう。

 あと、習慣というか慣例というか、我が家には一昨年、父が亡くなるまで仏様がいない?家だった。なので、尊敬しがたい父親だったせいか線香を上げるとか供え物をするという感覚がなく、そもそも、どうしていいのか判らない。結婚式や葬式への出席回数も極端に少なく、これも困ったものである。

 また、50年近く生きてきて、備わっていないのは自分だけのようだと気が付いた習慣がある。「いただきます」をするときに両手を合わせない。さる友人が海外に行ったときに食事の前に手を合わせるか否かを日本人かどうかの目安にすると言っていた。また、TVドラマなどを見ても、登場人物は食事の前に必ずと言っていいほど手を合わせている。

 この習慣だけは、一緒に食事に行った人に不快感を与えなくても身に着けたいと思う。