より良く。
昨日、道案内をした。スマートフォンを見るには見ていたが、明らかに困っていた就活中と思しき女の子だった。
暇人であることもあって道案内をすることは嫌いではない。ただ、渋谷などで外国人観光客を案内するのとは少し違う。
まず、目的地が有名どころではない。また、住宅街なので目的地まで一本道ということもない。
昨日は、その女の子がスマートフォンを持っていたので、地図の向きと現在地を教えた。
それでスマートフォンのマップを使って目的には確実に着けるはずである。ただ、そのときは住所も聞いたので、もう少し丁寧に教えられた。
バス停で3つほどあること、大通りに出たほうが道が判りやすいこと… 後になると、あれもこれも教えればよかったなと思う。
道案内をするのは少しでも他人の役に立ちたいという気持ちからである。そして、もっと役に立つことができたのにと残念に思う。
トラウマ。
家にいるとイヤな思いに駆られるので、喫茶店から慣れないスマートフォンで、これを書いている。友人でPCが壊れたからスマートフォンで仕事の書類を作ったという奴がいるが信じられない。
朝、夢で魘されて目が覚めた。厳密には眠剤で寝ているので魘されながらも目が覚めなかった。精神を病んで動けなくなったときに父親に殴る蹴るされたときの夢だ。
結果、精神科医に親から引き離されて実家からも追い出され、それから30年間、独り暮らしをすることになるのだが、当時は今のように親が子供を… などということは信じてもらえなかった。
親の手を振り払っただけで家庭内暴力だと親自ら110番し、警察官も親のいうことだけを聞いて私を殴った。もっとも大人になって、この話を警視庁の警察官に話をしたらショックを受けていた。
当時の私の心理としては、それは抗えないことだとしか思わなかった。虐待されていたという自覚もなかった。なのでトラウマという言葉が人口に膾炙するようになったとき、そんな嫌な思い出ぐらい誰にでもあると思っていた。
その事実に魘されたりするようになったのは最近のことだ。初めてトラウマというものの存在を信じるようになった。
最近、このようなことを思い出す原因としてネットストーカーの存在もあるだろう。私をキチガイに仕立て上げ、それを妄言だとして親のことを正当化してはTwitterなどで嫌がらせをしてくる。
忘れたい心の傷に塩を塗るやつはブッ殺してやりたいと思う。
死にたくないわけではない。
調べたら、昨日、酒を飲んだのは2ヶ月ぶりだった。もっと前から禁酒しているので、前回も今回もチートのようなものである。
以前も書いたが以前の訪問看護師に止められている。ひとつは向精神薬を服んでいるからで、ひとつはリラクゼーションケアをしてもらっていて血行が良くなりすぎるから。
向精神薬を服んでいることについては、今まで掛かった医者は、酒を禁じるのは少ない方である。その訪問看護師は、それで死んだ人が何人もいるのにと言う。
もうひとつのリラクゼーションケアについては、やってから何日も経っているので大丈夫と思って酒を飲んだら血行が良くなり頭がガンガンに痛くなった。
ロキソニンを服んでも頭痛は引かず、過去、医者に、よく生きているねと言われたことを多々しているが、なんとなく、これは駄目かもと思った。
そして、まぁ、駄目なら駄目でいいやと思った。我ながら、意外と生に対する執着というのはないものだなと思った。
以前、酒を飲んだとき、その訪問看護師に死にたいのかと言われた。この人は、例えば毎日入浴するという決まりが守れなくても鈍なのだが、酒を飲み始めると、まさか飲んでいないでしょうねと電話が架かってくるときがある。
訪問看護師も一長一短があり、その訪問看護師ではなく、今、お世話になっている人は、入浴ができていないとか、Blogを見て精神状態が悪そうとか、そういう空気を察する方である。
他方、以前、お世話になっていた方は、私が起きて恐怖を感じるとき、恐怖は起きてから入り込んでくる感じですか? などと訊いて、私が恐怖を感じていることを理解してくれる人であった。どっちを取るかである。
話を元に戻すと、死にたいのかと言われたとき、別に死にたいわけではないが死んでもいいと思っていた。楽になれば生きていても死んでも構わない。つくづく生に対する執着というのがないものだ。
なんか、最近、芸能人の自殺に端を欲する以外にも自殺に関する話題が多いので、ちょっと書いてみた。やはり私の周囲では苦渋の決断なのだからと受け入れる人が多い。
最後に、自殺未遂をした経験者として信じてはいけない言葉を2つと信じたほうがいい1文。
最初は
自殺をする人は死にたいほど生きたいのだ。
皆目、何が言いたいのか判らない。
もうひとつは
死ぬ気になれば何でもできる。
いや、だから、死ぬ気になったら死にますって。これを言う人は死ぬ気になったことがないはずだ。
そして、「死にたくないわけではない」人の1文。やらなければ死ねないということを作る方が、よほど生産的である。