身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

目的のない文章とSNS。

 言葉には何かを伝える目的がある。言葉に限らず表現というものはそういうものだろう。目的があると目標が生まれる。目的をどれだけ達成できるかということだ。例えば美味しいケーキがある。ケーキの美味しさの何割が伝わるか。

 先日、ある社会的地位がある人に誰にも読ませない文章があると言われ目が点になった。そんな文章があるかいと言うと日記がそうだと言う。日記だって後日、自分が読むためのものだ。もうひとりの自分が読むと言っていいだろう。

 先日、文章が上達するには日記にも向上心を求めるべきというようなことを書いた。そのためには何を書くべきかという目的がなければ描き切るという目標が生じず、向上心が介在する余地がなくなる。

 実は今、無目的にこれを書いている。Twitterで流れてきた「書くことがなくて書いているBlog」を見てみたのだが、やっぱり面白くない。今までも「解らない」を表現する文章を読んで面白くなかった思いが多々ある。

 あぁ、今、書いているこのエントリーも面白くないんだろうなぁと思う。しかし不思議なのは、それらの「書くことがなくて書いているBlog」にもコメントが付いていることだ。そこで、文章を理解するとは何なのか訳が判らなくなった。

 文章でなくてもいい。絵でも音楽でも白紙が1枚とか全くの無音というのは果たして表現なのか。そして、皆、それについての感想を述べず、それを書いた(書けなかった)人についてコメントしている。

 コメントの対象は作品ではなく表現者である。作品不在である。表現物の背後にある人間とのコミュニケーションを目的とするのは、すでに作品発表の場ではなくSNSである。まぁ、作品の評価ではなくもコメントが付いているのは羨ましくはあるが。