身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

呪文が判る私でも判らない言葉。

 テレックスの話を書いたら思い出した。先日、読んだ本・鷺沢萠「かわいい子には旅をさせるな」の1文。長くなるが引用する。

(前略)彼女は「そう、何事も行き過ぎはよくないね…」と言ったあとで、まるでひとり言のような口調で呟いた。

エスピーのドラフトをメールしておきましたんで、アサップでコレポンお願いします……」

 一瞬の沈黙のあとで、それは何の呪文か、と問うたところ、彼女は寂しく微笑んで言った。

「ね?意味わかんないでしょう?」

 判るか、んなもん。

 しかしオソロしいことに、金融関係の仕事をしている彼女は、仕事先の相手の口ら出たその「呪文」を、実際にこの耳で聞いたのだという。というか、その「呪文」は彼女に向かって「唱えられた」ものだったらしい。ちなみにこの手の「呪文」は、一部の業界の人々のあいだではごく日常的に使われているらしい。

エスピー」とは「SP」でSales and purchese agreement、つまり売買契約書の訳を縮めたもの、「ドラフト」は案文、「アサップ」は「ASAP」でAs soon as possilbe、「コレポン」はcorrespondの短縮形なのだという。つまり先ほどの「呪文」の意味は以下のようになる。

「売買契約書の案文をメールしておきましたんで、できるだけ早くお目通しください」

 私は思わず唸った。

 そうか……、そんな「呪文」を日常的に使っている人たちもいるのか……。

 

 私は「ごく日常的に使っている人たち」の1人だった。そして、この「呪文」が生まれた経緯というのは、やはり文字数で課金されるテレックスの時数をケチるためだろう。そして、送信者と受信者がいる限り、それは標準化がなされる。

 "correspond(ence)"を「コルレス」と言ったりする方言はあるが、標準化がなされている以上、それは呪文ではなく用語だ。そんな、用語を覚えた、呪文が判るはずの私でも、10秒ほど考えた言葉があった。

 それは"T4"という。 何だか判りますか? どこにも定義されいない言葉で、文脈を見れば成る程と判るのだが、とりあえず先輩に訊いてみた。そうしたら、あぁ、〇〇〇でしょと即答され、私も、まだまだだなと思った。正解は"therefore"である。