身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

想像力の欠如と謙虚さ。

 今日のInstagramから1枚。通院先のクリニックから見た東京タワー。暑くてスマートフォンを持って外にいられずカメラが斜めになっている。

Instagram 三田 東京タワー

 

 昨日は、白くないTシャツだったが寝間着のTシャツのまま外出してしまったり、今日もコンビニのコーヒーマシンでコーヒーが出来上がったのにボーッとしてしまったり、どうも変だ。

 朝も、目が覚めても身体が動かない。このまま地震が来ると思うと恐怖だ。実際、目眩がして、いつも揺れているような感じがするので差し迫った恐怖である。

 さて、この、身体が動かないということを区の精神障害者自立支援センターの所長に説明したときのことである。頭が働いているのに身体が動かないというのが判らないと言う。

 この時点で相手に期待するのはアウトなのだろうが、私も苦し紛れなのか詩的なのか「小人の国のガリバーが縛り付けられているように」と答えたら、ますます判らないと言われる。

 もう、判らないのならいいですっと言って話を切り上げたかった。問題なのは、精神障害者自立支援センターの所長という立場だからなのか、真剣に次の言葉を期待していることだ。話せば話すほど通じなくなるだろう。

 他方、先日、私が住むマンションの自治会長に「ゲーム飽きたでしょう」と言われ嫌な思いをしたと書いた。それを友人に話したところ、想像力が欠如していて「家にいる=ゲームしている」としか思いつかないのだろうと言われた。

 私は想像力の欠如以上の不快感を感じて、何に対して不快感を覚えているのだろうと思うと、家にいるということはゲームをしているということを、私の反応を無視し、事実として通そうとすることである。

 もし私が何か事件に巻き込まれても、堂々とマスコミに「家にこもっていてゲームばかりして」と表現するだろう。実際、あなたには関わりたくないと言ったら「俺は自治会長だぞ!」と言ってきた。自治会長が言えば事実になるのか。

 すべての物事は一面的には捉えられない。これこそ私の想像力の欠如で単純な例しか挙げられず申し訳ないが、例えば電車の遅延には、事故や車両故障などがあり、また事故が起こった理由というのがある。

 昨今、私のネットストーカーの嫌がらせが激化していて、精神病で仕事効率が落ちたことを書いたら、精神病でということを抜いて、いかに私が仕事ができないかを虚を取り混ぜて書く。虚が混ざっているのなら、まだ良いが、真実を見つけるに硬い。

 同時に、しつこく「文学論」を“交歓”したいと言ってくる。送ってくる文章は、決まって、判らないのでつまらなかった、である。小学生の作文とも呼べないそれを「作家論」と言い切ってしまう。

 私のことに執着し、スターを付けた人のBlogや増田まで漁っているそうだが、最初から事実を捏造する意図があるなら、そんなことはするまい。その頭では事実を正確に捉えられないというところだろう。

 結局、正確に物事を把握するのには、常に相手の言葉に謙虚に耳を傾け、相手の言うことを察し、同時にその自分の“察し”が正しいのか、常に相手の言葉から検証しなければならない。

 私は常に自問自答していたいと思う。