身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

天災に敏感なのは感情に敏感なこと。

 デザインを夏バージョンにしたら思いっきり小夜曲とは違うイメージになってしまった。あと、しばらく前にGoogleのインデックスに登録され、Googleで"minato serenade"で検索して来ていただけるようになった(URLを送信しているのだがBingは未登録)。

 

 昨日、Twitterでしたツィートが私の周りで物議を醸している。

 

 結局、大きくないものの、そこそこの地震が来た。そうすると、なぜ判ったということになるが、書いたように根拠はない。それでは、どのように感じたのだというと、Twitterでリプライをいただいた方のいうように「直感」としか言いようがない。

 既述のように、昨今、鷺沢萠『ありがとう。』を読んでいる。この中に、カレンダーすら見ず、身体に訊いて今日の日時(旧暦)を知り今日が満月かどうかを悟る沖縄の老人の話が出てくる。

世界が広いことは知っているつもりだったが、日本も充分広いのだ、ということを私は思い知った。この広い日本の、いちばん南にある島には、毎日を「旧暦」で数えられる人がいる。それによって月の満ち欠けを把握しているひとがいる。毎日が慌ただしいことを言い訳に、日付を「腕時計」に頼って確認しながら生きている人間と、なんという差であることだろう。(226ページ)

 私も、この老人に類したことを感じることがある。私は写真をやるのだが、露出というものである。私は露出計がなくても露出が決められる。ただ、これはあまり絶対的なものではない。ISO100でf11、1/125s.という基準の明るさがあって、これより何段明るい、暗いと考え、そこからシフトさせていく。

 他方、私は、音楽家や調律師が感じるような、音が高い、低いというのは、よく判らない。他の音に比べて半音高いなどということは多少は判るが、ぴったり半音というのは判らないしチューナーを使う。Aさえ判れば相対的に音が決められるという人もいるが、これは、私の露出の話と似ている気がする。

 つまり、私は明るさに対する直感はあるものの、音の高さに関する直感はない。そして、双方がある人も、カレンダーに対する直感はないだろうと思う。カレンダー、露出計、チューナー。自分の身体で測るしかないというのは大袈裟にしろ、敏感なものについての方が定量化しやすいのではないか。

 常々書いているように私は精神疾患を持っている。その病因は、他人の感情に異様に敏感ということがあると思う。感情を示すメーターというものはないが、冒頭に書いたような天候に関する直感というのは、自然の感情に敏感という風にも取れる気がする。ちなみに気圧性の片頭痛はない。

 他人にどう思われても平気な人は、何となく神経が太くて、自然の時間に関係なく、明るさや音にも惑わされず眠れるイメージがある。そういう人は、おそらく精神疾患ならない。ある意味、精神疾患を持っているから地震が来るのを察することができたと言えるのではないかと思う。