身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

川に流れて。

 なんか昨日のエントリーは以前のものと内容がダブってしまっていた。なぜ、昨日のことが頭から離れなかったのかは末尾の方で触れる。

 向精神薬のせいか、少し前に書いたとか、こういう記憶力が弱い。長期的なものの記憶も短期的なものの記憶も弱い。

 それは本を読んでも同じ。数ページ前に書いてあることを忘れたりする。一昨日から鷺沢萠『葉桜の日』に入っている『果実の舟を川に流して』を読むのに3日かかった。

 文庫本で100ページの文章である。大学受験の時代なら1時間で読んで1時間で感想や小論文が書ける量である。

 葉桜の日(新潮文庫)

 

 私は難関と言われる大学に受かったが行かせてもらえず、そこから自分の人生が狂ったと思っている。この小説の主人公の健次も、有名な私立の進学校から一流大学に合格するが、片親である母が急死し、学費が払えなくなり退学する。

 そして、川に流され海に運ばれたかのようにして「パパイヤボート」という女装したママのいる店で水商売のようなことをしている今の生活が始まる。

 官公庁から「パパイヤボート」に流れてくる、汚い色の背広を着たおやじたちは、明らかに普段はママや健次たちを小馬鹿にしているのだ。口に出して言うわけでは勿論ないけれど、彼らがそう思っているということは態度や言葉のはしばしにしみ出てくる。

 おやじ世代のサラリーマンの悲哀なんて健次には想像してみるしかないものだが、それでも奴らには奴らなりの生活の辛さみたいなものがあるということは判る。だからおやじたちが、夜な夜な女装をしてときにはフラッパーのヘアピースなんか付けているママを見下してみることで、安心を得たいと思うのも仕方がないことなのかもしれなかった。

 しかし健次は、「とりあえず堅実、まっとうのセンだけはボクら守ってます」とでもいうような連中の態度を、ケッと呟いて蹴散らしたいような気持ちになることがときどきある。堅実、まっとうは大いに結構、しかしそのあとに「で?」と言ってしまいたくなるのだ。(新潮文庫版166ページ)

 

 これで思い出すのは、私が、ある一流と呼ばれる企業に勤めていたときのことだ。私の時代には、もう、同僚同士飲みに行くなどという習慣はなくなっていて、忘年会だか何だったのか、部長を含む部員ほぼ全員で飲みに行ったときのこと。

 部長は出来上がってしまって、しかし冷静さを欠くことはなく、普通に、社長にまでなってやろう思ったと言った。そして、そのために子会社に転籍したと言った。のちに新聞の人事記事を見ると本当に社長にまでなっているのだが、そのとき、私も健次と同じような顔をしていたのだと思う。

 一流企業だから決して給料が安いわけではないのだが、課長は作曲か何かをしたり、私は物を書いたりして副収入を得ていた。部長は、そんな私のネクタイを指差し、こんなものをしているようじゃ作家にはなれないんだと言った。

 それは内幸町にあるスナックでのことだった。もう、銀座で2次会・3次会は終わっていて、ほとんどの女性社員は帰った後だったと思う。気分が良くなった部長が、普段は他人など連れて行かないという、その行きつけの店に我々を連れて行った。

 私は堅気でなくなって久しかったので鈍かったが、部長としては、そういう真っ当な自分を再確認したかったのだろう。見下すとまでは行かないまでも、この店に通っていた自分が社長にまでなろうとしているということを再確認したかったのかもしれない。

 結局、今の私は、健次と同じように流されて、堅実・真っ当とは遠い生活をしている。まぁ、社長になると言ってなってしまった部長には頭が下がるが、確かに、勤め人であることは私を見下せるほど立派なのかと疑問に思う。

 昨日、ふとネットストーカーに対して向きになってしまったのは、こんな小説を読んでいたばかりに、フルタイムで働いていますといいながら障害者雇用で、家族にも捨てられたというネットストーカーに対し、お前ごときに人格を攻撃する資格などないという感情が湧いてしまったのだろう。

 いずれにせよ、弱冠といえる年齢で、このサラリーマンのエレジー、それを正義のごとく振りかざすことに対する反発、そして、表題作『葉桜の日』に通じる自分は何者なのかという根源的な疑問、それらのことを描き切った鷺沢萠という作家に、私は魅了され続けている。