身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

幸せって何だっけ。

 標題は決して私が疑問を呈しているのではなく、TVCMのフレーズだ。私が子供のころのキッコーマン醬油のTVCMで、とりあえず映像を貼っておくので詳細は調べてほしい。


1986年CM キッコーマン ぽん酢しょうゆ 明石家さんま

 

 私の住む白金には幸福の科学大本山があるし、隣の三田にはエホバの証人の本部がある。よって、よくポストにチラシが舞い込む。読みもしないで捨ててしまうが、そこには、まるで通販で買えるもののようにシアワセなるものが載っている。

 さながらレディメイドのシアワセである。そんなに人によって幸せというのは画一的なものなのか。

 さて、寓居がある一角は再開発が進み、最低1億円からというマンションが連立し始めている。駅に行くと「年収1千万円でも買える」と広告が出ている。

 金があるということは幸せの要素の一つだろう。しかし、ただそれをもって幸せなのかというと、あまりそうとは思わない。

 先日、今シーズン始まりの連続TVドラマを観ていたら、「恋する母たち」で、ある登場人物が、数億ションに引っ越してきて、まだ小さい息子に

お父さんは弁護士だ、しかも大手町に事務所を構える一流の弁護士だ。だから、こういうところに住めるんだ、ここでお前もハイクラスの人間として世間の97%の人を見下して暮らしていくんだぞ。

というようなことを言う。弁護士が割のいい商売という話も聞かないし、弁護士事務所など商社と同じで一等地にあるのが有利だと思うので、ちょっと盛り込むポイントが違うかなという気もするが、まぁ、社会的なステータスとカネがある人間として描かれているわけだ。

 このような描写を入れるのは、当然、目的は視聴者の反感を買うことである。

 また、コロナによる不動産バブルで渋谷にある20億円のマンションが売れているというTVニュースを目にした。

 そんなことなら客観報道をしろよという感じもするが、ペントハウス、シェフを呼ぶための厨房だけでなく寿司職人を呼ぶためのカウンター… などが煽るように映し出される。

 反感を覚えるということは、これは「他人の羨む暮らし」ではないだけでなく、あまりしたい暮らしでもないということだ。

 こう書いている私でも、金はあればあるだけいいと思う。好きなものが買える。好きなものが食べられる、好きなところに行ける。また、港区には子にいり細にわたって充実した公共施設があり、コミュニティバスが5系統も走っているのは彼らのおかげである。

  ただ、何事にも限度というものがある。良し悪しも判らず、それが一流と言われているから手に入れるというのは、さながら映画「プリティ・ウーマン」の、ビビアンに出会う前にマニュアル車も乗れないのにロータスを買ってしまうルイスである。

 ただ、似合わないネクタイをしているというエピソードも出てくるが、私の体験からすると、これは不思議と似合わなくてもエルメスをしていた方が有利なのが実際である。

 私が小学生のとき、同級生に町医者の一人息子がいた。その子供の自慢は、自家用車がセンチュリーだということであった。しかし、同級生の誰も走っているのを見たことがないので、最近でこそ話題になっているセンチュリーというのがどんな車かも知らなかった。

 私が貧乏なせいか知らないが、いい暮らしにあこがれると同時に、いい暮らしをするのは悪いことのように思ってしまう。

 数億ションを買ったとしても、それを建てるための日雇い労働者のことを考えて搾取している気になってしまう。自分が、そういう生活をしていたからかもしれないが、夜、オフィスビルの明かりが点いているのを見て綺麗だと言う女の子の横で、そこで残業するオフィスワーカーのことを考えてしまう。

 社会主義制度ができたころの貴族というのは似た気持ちではなかったか。下僕に対する罪悪感からできた制度ではなかったか。そんな気がする。

  新興宗教のチラシのように手土産のようにポンと手に入る幸福(これが幸運とどう違うのか判らない)も、濡れ手に粟のように金品が手に入るのも、なんか私としては幸せとは思えない。

 「ポン酢しょうゆがある家」というのは、そういう層の心を掴んだのではないか。決して金を持っているわけでもなく、ポンと幸運が転がり込んでくるわけでもなく、働いた分相応の温かい食事や家族が待っている。

 明石家さんまさんがショーユーコト、と言いそうである。

 ただ、私はもう少し強欲で、仕事も遣り甲斐があり、その分だけ人より少し多くの金が欲しいとは思う。