身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

醒めた朝。

 朝、起きて、何を下らないことに拘っていたのだろうと思った。相変わらずネットストーカーが挑発してくるのだが、それさえも、どうでもいいを超えて、そんな無益なことにしか労力を割けないのが可哀そうになった。世の中、目を向けるべきことは沢山ある。

 困るのが、文章の方も憑き物が落ちたようにサッパリ書けないということだ。書いていて乗らない文章というのは読むほうも乗らず、昨日のエントリーなど散々なアクセス(量も質も)だった。このBlogを始めた初日より酷い数字だ。

  ある作家が言っていたのだが、物を書くには憑依と降臨が必要だという。この人は決してアヤシイ宗教に嵌っているのではない。しかし、今日Blogのエントリーを書こうと思って力が入らないのは、集中する力がないからであり、それは延いては憑依だと思う。

 これは物を書く人に限らずアスリートでも同じだろう。なんで記録を打ち立てねばならないのかと疑問に感じるようになったり、どうでもいいように思えたりしたら努力する意味を失う。ある意味、スポーツの神様(なのか?)に憑りつかれたようなものである。

 ずっと、芸術というのはスポーツのように競うものではないと思っていたが、自分の中のどれだけを描き切るかというのは数値化できそうだ。思っていることの30%しか書けなかったというのは、持てる力を出し切るいう観点からするとスポーツに似ているかもしれない。

 もう1点の降臨であるが、いくら書きたい書きたいと思ったところで、書く内容がどこから来るのかというと、やはり天から降ってくるとしか言いようがない。今日も、書くテーマが幾つか思い浮かぶのだが、文章が ほとばし ってこない。

 迸ってくるにしろ内容も問題で、筆者が捻り出したものが、モチーフにした現実と乖離している場合、ものすごく白々しく感じる。この前、「コクリコ坂から」が面白くなかったと書いたのは、時代考証がなっていないことに加え、特に学生の活動について、想像で書いていることが現実とは全く違って、しかも、その現実とは違った描写に作者がノリノリになっていることである。宮崎駿氏がファンタジー作品で評判が高いのも、そういう現実との不一致が少ないためだと思う。

 結局のところ、降臨というのは想像力の逞しさと言える。それは創作をしていない私でも同じことで、そのときの情景というものが鮮明に思い浮かばなければ、それを描写することはできない。俳句で、一句浮かぶという表現があるが、原稿用紙を真っ黒に書き潰すような私でも、まったく文章が降りてこない。

 長々と書いてきたが、今日の私は書くこと自体に疑問を持ち、書くことが思い浮かんでも描写するように鮮明な画が浮かばない。こういうときは、どんな対策を取ればいいのか、せめて本くらいは読もうと思う。

 私は、本を読んだりすることを「インプット」と呼ぶのは大嫌いだ。もしインプットが、何かのトランザクションを経てもアウトプットに直結しているのであれば、それは単なるコピペである。コピペしたものが降ってくるとは思わない。消化(昇華?)できる、良質なものに触れたいと思う。