身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

「生活様式」というより「日常」。

 先ほど、家に帰ってきた。松戸から東京に帰ってくるのに何を大袈裟なと思われるかもしれないが、松戸といっても北小金駅からバスという立地である。立地といえば寓居の固定資産税が上がりっぱなしだが、もっと不便でいいから地価を安くしろと思う。

 さて、松戸に行って驚いたことは、人が過密でいることだ。電車は皆、空席なく座席に座っているし、バスなど窓も開いていないしエアコンが車内の空気を搔き混ぜている。そのくせ、私がマスクをしないで郵便局に行ったら白い目で見られた。

 さて、マスクをするなどの対策を「新しい生活様式」と言うことに非常に違和感を覚える。生活様式の変化というのは、明治時代に和式から様式になったとか、もっとドラスティックで、かつ時間を経て変化するものだと思うからだ。例によって辞書を引いてみる。

生活様式(せいかつようしき)とは - コトバンク

世界大百科事典 第2版

ある社会あるいは集団の成員が共有している生活の営み方,とくに人間の基本的活動である生産(仕事),消費(余暇),再生産(家族生活)の本質と関係について共有している認識と行動の枠組みのこと。このような生活様式が民族や時代の違いによっていかに相違するものであるか,また,それだけに生活様式の洞察が異文化理解にとっていかに重要であるかはあらためていうまでもない。ところで,同じ民族や国民社会の内部でも,社会的分化が進み,階級や階層間の格差が拡大し,価値観が多様化してくると,階級や世代や文化の共有を基盤とした独自の生活様式が出現することになる。

 やはり、基本的活動の本質と…との件を見ると、「生活様式」という言葉に違和感を覚える。クルーズ船で新型コロナウィルス感染症クラスターが発生したときは、まだ、誰も、このような生活が始まるとは思ってもいなかったわけで、上に挙げたように「生活様式」というには、経済への打撃は表層的とは言えないが、あまりに表層的かつ急激な変化だ。

 このような日常が始まって、最初に思い浮かべたのは「非日常も日々続くと日常になる」という「戦場のメリークリスマス」のキャッチコピーだ。もっとも封切りは私が幼いときで、リアルに見たわけではないし、このコピーの存在は知らなかった。ただ、どこかで名コピーとして取り上げられていた。

  誰も、クルーズ船の内部での「非日常」が全国に蔓延すると思っていなかったわけで、そうすると、非日常の日常化という方が、なんとなくシックリくる。バスの窓を開けない、私のようにマスクを忘れるなどというのは、それを行なうのが、今の「生活様式」の中では不自然であるからだ。

 実家にいて回転寿司に行ったときなど、既述のように若者は大騒ぎして飛沫が飛んできそうだし、誰も、それを「時代とともに」変わったと思っていないから順応できないのだ。そうなると、やはり「生活様式」が変化したというより、非日常が日常化したといった方が妥当ではないのかと思う。