身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

表現の壁。

 昨日、通院したので通院の記録などを書こうかと思ったのだが、今日は寝不足でスタートが遅くなって未だ仕事をしている。動けないときよりいいか… と思い、そういえばと、この前、身体が動かなくて区の精神障害者自立支援センターの所長に相談したときのことを思い出す。

 身体が動かないんですと言うと、どういう風に動かないのですかと言われ、力が入らないのではなく力を入れても動かない感じですと答えた。判らない… と言われた。どう説明したらいいのか判らず、思わず文学的な方に行ってしまい、小人の国にいるガリバーのようですと言ったら、なおさら判らないと言われた。

 この人には、なかなか色々なことが通じない。胸が痛いと言って、どう痛いのですかと言われ、鈍い痛みではなく刺すような痛みと言っても判らないと言われる。え、痛みって、これに2分されるんじゃないの…?

 えーっと、だったら、どんな言い方だと通じますか、と訊くと、恋をしたようなときのような痛みなら理解できると言われ、逆に私がキョトン。私の表現を上回る抽象さ。あれって比喩表現じゃないの?

 ひょっとして、その痛みを知らないのは私だけかと思い、友人に訊いて回った。恋をして胸に痛みを感じたことがありますか? と訊いて、あると言ったのは、たった1人。その1人も、強いて言えばね、と言う。痛みというより締め付けられたような感じと言えばいいかなと言われ、それなら何とか私も想像力を働かせれば理解できる。

 もう、こうなると、英語しか判らない人に日本語で話している以上に厄介かもしれない。思ったことが100%伝わっているとしても、相手の理解力が、それに届くことはないだろう。どんなにAIが発展しても、相手の想像力は乗り越えられない壁である。