身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

虫の知らせ。

 最近、耳にしなくなったなぁと思う言葉に「虫の知らせ」がある。私自身を顧みても、友人から電話連絡がないから何かあったのではないかと思うこともなくなり、これは文明の進化とともに廃れていった能力ではないかと思った。

 ここで改めて「虫の知らせ」の定義を調べてみた。とりあえず、正統に国語辞典で。

虫の知らせ(ムシノシラセ)とは - コトバンク

デジタル大辞泉

よくないことが起こりそうであると感じること。

大辞林

何の根拠もないのに、よくない出来事が起こりそうだと心に感ずること。

 悪いことが起こる(あるいは起こっている)予感というところだろうか。しかし、辞書の定義とは別に「自分や親しい人の死を予知する力」と限定的に書いている雑誌記事を見付けた。

gendai.ismedia.jp

 

 理論は後付けと言われるが、1年ほど前に父を亡くしている私には、それを言ったら… というのはある。なぜ父が死ぬ前日に親族全員(といっても4人だが)が集まったのか。そして、象徴的なのは、揃って写真を撮ろうと言われたことだ(撮らなかったけど)。母も、父が死ぬ前日に、明日、何かをしてやると言われ、普段は他人に何かする人ではないのに珍しいなと思ったそうだ。

 しかし、これらを「虫の知らせ」と言ってっていいものか。別に「自分や親しい人の死を予知」して、それらの行動を取ったのではないだろう。むしろ因果は逆で、死にそうだから親族を集めたのではなく、むしろ安心したから死んだようにも思う。それに「虫の知らせ」とは行動を取ることではなく、虫に知らされる、すなわち感じることだからだ。第一、「よくないこと」は死だけとは限らない。

 ただ、この記事で興味深く感じるのは、「お迎え現象」という「死の間際に亡くなった人々が枕元に立ち、あの世への道案内をしてくれるというもの」に関する記述。

 お迎え現象が起こるのは「自宅」が87.1%で圧倒的に多く、「病院は」わずか5.2%。亡くなる数日前が一番多く43.9%で、ほとんどの人はお迎えが来てから1~2週間以内に旅立っていた。

 近代的な医療機関のほうが圧倒的に少ないということは、この記述は冒頭で私が述べた、文明の進化が虫の知らせを少なくしているのではないかということと合致するような気がする。ただ、この「お迎え現象」についても

興味深いのは患者の反応で、お迎えが来ても「怖い」と思った人は少なかったようで、お迎え後の故人の様子を尋ねると、「普段どおりだった」「落ち着いたようだった」「安心したようだった」などの肯定的な回答が45.8%。「不安そうだった」「悲しそうだった」などの否定的な回答36.8%を上回っていた。

 そうで、否定的な回答より肯定的な回答を上回っているのなら、やはり、それは、嫌な予感、すなわち虫の知らせとは言えないのではないかと思う。しかし、昨日、書いた映画「日々是好日」の中で梅雨の雨音と秋雨の雨音の違いというのが出てきたが、そういう感受性は、どんどん薄れていくであろうことを、私は、しっかり感じる。