身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

通院の記録。② (裏よりマージ)

 今日は通院だった。身軽に起きられた… つもりが、何か気が乗らなくて、やることが散漫。今日の通院で緊張しているのかと思い、お世話になっている前任の保健師さんに電話し、考えをまとめる。「特に変わりありません!」って言えるようになりたいですよねと言われ、まさにそうだと思う。診察には不満があってトンカツを自棄食い。

 母が電気代が8万円かかってもいいんだと言っていたのが、最近は電気代が掛かってどうしよう、もっと減らさなくてはと言うようになったんですという話をしたのだが、判らないと言う。どこが判らないのかと訊くと、まず電気代が8万円かかるのが判らないし、なぜ、その話をするのかも判らないと言う。

 この辺のことが、私が緊張していて前後も判らなければ主治医に何を言われたのかも判らない。前任の主治医のときは総合病院で、呼び出されてから診察室に入ったので録音していたのだが、診察室を出てボイスレコーダーの停止ボタンを押すと毎回必ず秒単位まで一緒で、何かなぁと思った。

 今日は、記憶が正しければ、どうかなぁ、と言われた。自分が言われいるのか独り言か判らなくて訊き直した。そして言われたのは、これも記憶が正しければだが、考えを他人に任せて、そのくせに文句を付けるというようなことだった。親と子とか医者と患者とかの関係においてだという。俺は頼られても他人の人生を背負う気はないぞと言われた。

 母の言うことに一貫性がないのは今に始まったことではないし、なぜ、それを自分に言うのか判らないという。最近、読んでいる鷺沢萠作品の何かに、自分はおもねっているなぁと思うことがあると書いてあり、おもねっているという言葉の意味が判らなくて辞書を引いた。大衆におもねるの「おもねる」か… と思って、やはり私も母におもねっているなぁと思った。

 親に意見を訊くのは、親のご機嫌取りのようなところがあると思う。ということは、その意見に抵抗するのも親にご機嫌を取っているのだろうか… あるいは、面倒を掛けて、それを収めてやったと思わせることで「おもねっている」のかもしれない。