身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

愚直でありたくはない。

 せっかく精神力も回復し始めて、それに伴ってアクセス(常々いっているが、数だけではなく、いかに書き手の意図するように読まれているか)も回復してきているのに、そのタイミングで、こういう完成度の低いエントリーをアップしなければならないというのは、なかなか歯痒い。

 

 今朝は、起きたときに酔っ払っていた、といっても、もう数ヶ月も酒は1滴も飲んではいない。これが、苦しくて苦しくて。感じとしては「飲み足りない」なのだが、元から飲んでいないし飲むわけにもいかない。

 かつてから乗り物にも乗っていないのに車酔いというような状態はあったが、酒を飲んでいないのに酔っ払うというのは、47年間、生きてきて、初めての経験だ。私は酒を飲むので「酔っ払っている」と表現できるが、酒を飲まない人は、どう表現するのだろうか。

 40歳を過ぎて初めて味わった心臓が針の筵の上で転がされる感覚というのもそうだ。その感覚を理解できないという人は多かったのだが、いわゆるコ・メディカルの人たちは半年で総白髪になった私を見て、感覚は理解できないが辛さは理解できたと言う。

 コ・メディカルといえば、今日も、迷った挙句、頼りにしている前任の保健師さんに電話をした。現在は係長で、直接、住民に触れる人ではないのだが、相手にしてくれて有難い。そうでなくても東京都港区は、南青山の児童相談所が云々で忙しいというのに。

 そして、やはり電話をして良かった。求めているものの1つに“優しさ”に類するものはある。しかし、やはり、いちばん大きいのは“理解”だ。

 昨今、私がバカと呼んでいる人たちは、共感してくれると嬉しいですよね判りますと言うのだが、別に私は同情してもらいたい訳ではないから、彼らは判っていない。判っていないのに判ったつもりになるのも、バカに多い現象だ。

 なぜ理解してほしいのか。理解なくして解決はないからだ。

 では、理解するために何をすればいいか。ファッショニスタ(私の主治医)曰く、それは症状に謙虚に耳を傾けることだという。コ・メディカルの方々を含めた医療従事者に、白髪に気が付くなどというような人が多いのは、そういうことなのだろう。

 事象を客観的に、正確に捉えることの重要性というのは私も同様に考えているが、あるがままを捉えたところで、そこから何も学ばないというのは、どうかと思う。御免で済めば警察は要らないという言葉があるが、苦痛を認めても我慢すればいいというのなら医者は要らない。文学者も然り。

 私は、苦痛に耐えるために鈍感になるより、苦痛の原因が何なのか、どのように取り除けばいいのか、そういうことを考えていきたい。バカであることが真面目だという理論については論外である。だったら勉強をしている人は不真面目なのか。

 昨今、こういう人は嫌だなぁというのを色々と見てきて、だったら自分は、こうありたいというのを、今日は色々と考えていたのだが、言葉にならずして午後9時になってしまった。

 ただ、これだけはいえるのは、ボーッとしていずに、単に辛いでは済ませずに、積極的に考え、積極的に問題を解決し、自分にも他人にも積極的に助けの手を差し伸べたい。少なくとも私は、自分自身がバカでいていいとは思わない。