身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

世の中、バカが多くて疲れません?

 

 骨折り損のくたびれ儲けではないが、ついに怒りすぎて疲れてしまった。今日は午後2時から眼科の受診だったので(緑内障と診断されていたのだが自覚症状がなく放っておいたら、Twitterで見てもらった方がいいとアドバイスを貰い、今日は視野検査で明日は診察)なんとか午後2時に病院に行き、なんとか少し日常が回り始めた。

 

 さて、昨晩、実家の隣人から電話がある。家の電気が遅くまで付いている、家族なのだから頻繁に様子を見に来いと言う。もう、父が死んで、これから発生するであろう母の面倒を掛けられちゃ困るという脳ミソがダダ漏れで、この頭の悪さを何と表現していいのかと考えた。(ちなみに相手には、私は家族だと仰いますが、あなたは隣人として何かしましたか? と言ったら電話が来なくなった。)

 その人のことを、客観的事実として、中学でグレて高校に上がれず不認可の専修学校に行ったが、そこも女のケツを追っ掛けて辞めてしまい、40歳を過ぎても間違えた道を歩いていることに気が付かない人、と友人に説明した。Facebookに投稿したのだが「はぁ?」というコメントが来て、これはヤンキーの神経を逆撫でしたかと思ったのだが、違うんですぅ、そういう人、つまり単に勘違いして粋がっている人ではないんですぅ、と返信したら、それは「ドキュン」というやつですねといわれた。ビンゴだ。

 この前、読んだ鷺沢萠作品に「マジ」という言葉は一時の流行で淘汰されるのかというような話が書かれていたが(もう20年近く前の作品か?)、なかなか新しい言葉というのはニーズに沿って作られるものだなぁと思う。そして、こういう風にストレートな表現が出て来ないのは、私自身も頭の回転数が落ちているなと思う。

 先週の精神科受診でのこと。動けるときは1日に2万歩も歩いて、医者によっては双極性と捉える人もいるだろうねと、ファッショニスタこと私のシュリンクに言われた。歩くのは気分が昂ってではないし、今、苦しんでいるのは、それをする気力が湧かないからではなく、客観的に、そうすべきだと思っているのにできないからギャップに苦しんでいるということが、ファッショニスタに伝わっていない。私は、それを、その場で切り返せなかった。今になると、この時点で既に疲れていたのかなとも思う。

 

 まぁ、この辺は、表現できない自分がバカだったり、理解力不足の相手がバカだったりするだけで、互いに、相手に見えないバカの壁が存在するので仕方がないとしよう。さて、ここで、このBlogにも何度も登場する、高輪のマンションオーナーの友人のことだ。標題は、彼のお気に入りの言葉である。

 フランス語を習っていると自慢するので、Eメールの返信に"Oui monsieur!"と書いたら、判らないという。ボクちゃん、テストで50点だからと。この人は、ボンボン育ちというのが売りらしく、出来の悪いボクちゃん見て見て! というようなことを頻繁に口にするのだが(齢60歳過ぎ)、そのくせ、標題のキャッチコピーがお気に入りで、会うたびに、そのコピーを口にして、いいなぁと言う。好きと言いつつ覚えていなくて、毎回、同じところを間違える。

 どこまでが意識して放っているブーメランか判らないが、いい歳をして、バカなボクちゃんオチャメでしょ! というのもミットモナイなぁと思う。そして、何より、こちらが疲れる。頼むから自分のダメージにはならないからといって、他人を意図的に疲れさせるのは止めて欲しい。これも、シャレにならなというのは、こういうことをいうという端的な例として受け取った。

 

 

追記・久しぶりに渋谷に行ったら、前回、来たときは1分も咲いていなかった桜が満開だった。今まで、その辺に咲いている咲良を見る余裕もなかった。(※音が出ます)