身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

環境こそ物の上手なれ。

 今になると、やっぱり昨日の精神状態は普通ではなかったと思う。昨日、あのエントリーをアップして所用を足したら午後10時になった。かくだん遅い時間ではない。しかし、私は日記を付けているのだが、何を書いているのか判らなくて止めた。1時間後でこうなのだから、昨日のエントリーは、勘弁してほしい。

 しかし、昨晩は冷や汗をかいて目が覚めるようなことはなかった。それなのに昼過ぎになっても起きられない。疲れ方が普通ではなかった。できなければ仕方がないと居直ってしまえれば楽なのだが、何かしなくてはならないと思う。そして恐怖に襲われる。

 以前、主治医に相談したら、安定剤を服んでリラックスするしかないと言われるが、いつも相談に乗ってくれている前任の保健師さんに、朦朧としてないときは、そういう感情に流されていないというようなことを言われて、たしかに頭がハッキリしているときは現実を客観視できている。

 きっと、理性の働かない意識の深層のようなところに、そのままではいけないと自分を非難する何かと、それに対する恐怖があるのだろう。頭が働いていれば、理性で、それを抑止できているのだと思う。

 頭では判っていても、その通りにできないのが人間というもの。逆に頭で判っている通りにできるのであれば、ヒューマンエラーが出ないからAIにでもやらせておけばいいんじゃないの? という気もする。

 これに関しては、さるタレント評論家が人間は全てアーティストになるという記事を書いていたが、最近、ネットニュースなど見ると、何を当たり前なということが注目を浴びていて不思議だ。先日、書いたブロガーさんも炎上しているし。

 ご存知のように、ここ数日、"Yu as URIGAYATSU" (@urigayatsu)というアカウントでTwitterを使っている(これも、個人アカウント以外でInstagramまで使ったのは、ちょっと正気ではなかったなと思う)。そこで、英語が話せる人は普通に1日2時間勉強しているというのが人気ツィートになっていたが、皆さん、高校時代、普通に、そのくらいは勉強していませんでしたか?

 これもかつて書いたが、好きなこと、やらなければならないと思うことがあれば、自然と勉強をしているはずである。別に英語を話したいと思わなかったり話せなくて不自由がないのなら、勉強しなくてもいいのではないか。

 また繰り返しになるが、私は高校時代、英語の偏差値は30だった。これは、本当に環境が悪かったと思う。高校の英語教師なんて嫌々やっていると平然と言い放つ教師、生徒(私)にまでパワハラを行ない授業を受けさせない後の校長、それを引き継ぐ親。そんな中にいれば勉強したくてもできない。

 実際、専門学校に進んで勉強を始めたら、全校で3番の成績で卒業できた。当時の神田外語の1学年の学生数は1,000人少しくらい? 入学試験の競争率は、だいたい2倍だったと思う。

 その大きな理由は勉強したかったからだ。私は英語こそ駄目だったけど、言葉そのものは好きだったので、面接があるから入学試験は通るだろうなと思った。これも書いた気がするが「学科試験以外の理由により」(要は内申書が悪いので)と書いて不合格の通知を送ってきた大学があった。

 高校で偏差値が30だったので、30クラス中、上から4番目のクラスに入れられて戸惑った。下のクラスに入れば基礎からやるのだが、上のクラスだと高校で習ったことは当然として扱われるので授業に付いていけない。最初の1学期は、どこをノートに取ればいいのかも判らず同級生にノートを借りた。

 しかし、あの頃が私の人生で一番楽しかった時期だったと思う。当時、私は麻布の仙台坂上というところに住んでいて、仙台坂というのは、なかなかの急坂である。それを、毎日、神田駅前にある学校まで往復、自転車で通い、内風呂がなく麻布十番の銭湯まで通っていたが、まったく苦にならなかった。

 英語の勉強も1日に6時間はしていたと思う。英語の勉強といっても単語を覚えることや文法を解析することだけではない。神田外語は、当時としては珍しく大学の3年時に編入でき(だから入ったのだ)英文学の基礎という感じの勉強をしていた。原書が読める状態で大学に入れば、絶対に高校から上がってきた人間より有利だ。

 家にいるときでも机にしがみ付いて勉強していた。それを、叔父は、仕事をサボって家までコソコソ様子を見に来ていて、勉強なんて嫌いなものに決まっているから1日に何時間も机に向かって勉強するなんて不可能なことだ、机に向かってボーッとしているに決まっているといって大学に行かせなかった。これは、何回、書いても書き足りない、この世の怨念のようなものである。

 ちなみに、当然、併設の神田外語大には入れるのだが、試験はあるものの、国立の二期校や早稲田あたりまでは入れそうな感じだった(慶應は自分の大学以外の単位を認めていない)。それを、叔父は、そんな人に言えない大学に行かせるかと言った。叔父は2浪して東京経済大の出身だが、逆に、私は、その名前を知らなかった。

 それも、大学に願書を出してから行かせないというのだから困ったものである。しかも、私は、全優の成績表を見ているのだから、勉強していると判ってるものと思っている。だったら真面目に就職活動したよ。けっきょく、入った会社は今でいうブラック企業だったのも、何度も書いている。

 午後9時ごろに、上司が、有くん、眠いでしょ? と言う。当たり前である。12時間も会社にいるのだ。そもそも、課長が午後9時まで会社にいう会社というのは、どうだ。そして、どうして、そう思いますか? と訊くと、目が座っているという。

 はっきりいって、そんな状態で、嫌々やっている仕事が上手く行くわけがない。1日8時間労働、週休2日というところに落ち着いたというのは、その程度が普通に仕事ができる限度なのではないかと思う。まぁ、私は勉強は好きだったので、寝ても英語のことを考えていたけど。

 けっきょく、勉強ができなくなるのも苦痛が生じるのも、元凶は不健全な精神なのだ。今日も、起きてから、疲れが取れずに横になってしまい、また恐怖に襲われた。本当に、これさえなければ、どれだけのことができるかと考えてしまう。

 やる気があっても、それができない環境というのは、怠けていられる環境より苦しい。というより、誰でもいい、たとえば錦織圭選手をトーナメントに出さないということを考えて欲しい。そして、おそらく錦織氏も黙っていても練習するだろう。逆に、やる気がない人は、好きでないことをしても苦痛には感じないのかなと、ふと思う。