身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

元号の問題。

 疲れて、今日も、まとまりのない酷い文章だ。昨日から実家(松戸・小金原)に行っていた。昨日の昼過ぎに自宅(東京・白金)を出て、最寄りの地下鉄(南北線都営三田線)の駅に行ったら乗り換える千代田線が止まっているという。まぁ、行けば何とかなるか… と思ったら運転再開。遅延ありとの情報だったが、乗り入れ先の常磐線各駅停車まで普通に動いていた。混んでいると思ったのだが、翌日から平日だというのに電車はガラガラだった。今年は晴れ着の人を1人しか見なかった。

 実家では、郵便物が山積みになっていて、私が休む間もなく処理してくれと言われる。返送された郵便と差し替える控えの書類(こういうのを取っておくのが元事務系専門職だなぁ…)がないし、苛々して、思わず怒鳴ってしまった。夜になると大分、落ち着いてきて、母と地元(母は東京・麻布の出身)の話をする。母は夜明けまで起きていて昼に起きる生活をしているので良いのだが、私は、一応は(社会人じゃないけど)社会人らしい生活をしている。そして、今朝は午前7時に目が覚めたのだが、頭は働いていても疲れて身体が動かない。慌てて区の職員の方に電話をしてしまった。本当、ありがとう東京都港区。辛うじてSNEPにならないで済んでるよ。金を稼ぐようになったら引っ越してもふるさと納税するよ。

 母は私にいて欲しいようだが、こっちが持たない。早々に帰ってきた。家に帰ってリラックスしても頭が痛いし、緊張が解けたのか肩凝りが酷い。読もうと思って本を持って行ったのだが、結局、読まずに終わり、帰ってきても読む余力などない。しかし日本人は本を読むなぁと思う。新聞を読まない人でも本を読むということに驚く。そして私は、みんなに、こんな本も読んでいないのと言われる本を読んでいない。それより社会情勢を知ることの方が優先だろうと思うのだが、どうか。

 さて、社会情勢といえば改元まで半年である。新しい年号は1ヶ月前に発表になるそうだが、運転免許証に西暦が併記されるようになると聞いて、遅いと思った。というのは、私は誕生月が1月で、5年ぶりの(←優良であることをさりげなくアピール)免許の更新を既に終えたのだが、有効期限が平成36年となっているのだ。発行されたときに、すでに存在しないと判っている年が印字されるというのは、どうか。

 そして、今日、みずほ銀行のATMで通帳を使った。みずほ銀行は3日かけて大規模なシステムの更新を行った。これが終わってシステムエンジニアが溢(あぶ)れるという話もある(←社会情勢を知っていることをさりげなくアピール)。そして、通帳の印字を見て感心した。西暦になっているのである!

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 ここのところ相続の手続きに飛び回っているのだが、銀行によって和暦で書いてくれというところと西暦で書いてくれというところがある。役所が和暦なのは判る、というより諦める。諦めるということは、すでに、そのオプションが好ましくないことを意味する。しかし、銀行というインターナショナルなビジネスをしているところが和暦のままなのは、どうか。

 ちなみに私がしていた事務系の専門職というのは貿易実務である。主にアメリカとアジアに工業製品を輸出していた。ヨーロッパを担当したことがないのは、色々と込み入っているので、私のような単純な頭では対応できないのだ。そして、アジアの客というのは、非常に楽である。韓国は担当したことがないが、だいたい、英語か漢字が通用する。

 そして、最後にいた会社は総合光学メーカーだった。光学メーカーにとって、金額としては大したことはなくても、数が出ていくのはカメラである。そして、カメラは海外生産が盛んなので、アジアの原産国から最大のマーケットであるアメリカに、直接、輸出するということ(いわゆる三国間貿易・ドロップシップメント)が多い。最後の会社で雇われたのは、これが最大の要因ではないかと思っている。カメラの転売に失敗したとかドロップシッピングに失敗したなどと言っている個人については“?”と思っている。

 そこで生じる問題が、単位である。他の会社で香港の会社に100万円の請求をしたら100万アメリカドル(ちなみに香港ドルアメリカドル兌換)を振り込んできたという、とんでもないことがあったが(これこそ、手形も振り出していないのに、銀行と政府は、どう思ったのだろう)むしろ、為替のように常にレートが“見える”ものはいい。困るのは、動かないし滅多に換算しないものである。

 カメラレンズの距離指標を見ていただきたい。今月、発売された国内のレンズメーカーがレンズにフィート表示がないことが話題になったので、ほぼ、すべてのレンズにフィート表記があると思う。これは以前、書いたが、概算だが、インチは㎝を5倍して2で割った数、1フィートは30㎝だと思えば、なんとか対応できる。

 しかし、グローバリゼーションを声高に叫んでいるアメリカ(その反発がトランプ政権という見方もあるが世論については述べない主義だった)だけが使っている単位を、なぜ、他の国が配慮して、たとえばレンズの鏡筒に記さなければいけないのだ。日本だって左ハンドルの車が走っていいのだから、道路標識などに関係ないものはメートルに統一しろと思う。

 脱線ばかりで申し訳ないが、十数年前まで、外車というのは右ハンドルの車は左ハンドルの車より価格が高かった。メルセデス・ベンツに至っては、ヤナセに英国仕様車を取り寄せてもらうしかないという有様だった。「黄色いロールスロイス」の時代にはロールス・ロイスが右ハンドルであることがステータスだったのが、今は逆にロールス・ロイスは右ハンドルの方が高い。

 疲れて、まとめる気力も時間もなくなってしまった。つまり、グローバリゼーションのためにアメリカもメートル法を使え、その代わり日本も西暦を使おうということである。日本には、まだ、明治・大正・昭和・平成、そして、次の元号を通して生きている人がいるのだから、何歳から何歳までが何時代というのは、とても不便なものに感じる。ちなみに平成元年、私は何歳だったのか換算表を見ないと判らない。