身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

あえて闇に向かう(小川洋子『冷めない紅茶』を読んで)。

 主治医に、朝、起きられないと言ったら、先週から眠剤が弱くなった。目が覚めるには覚めるのだが、寝も浅く、起きたときには苦しくて仕方がない。かつて鬱だったときは起きたときに落ち込みが激しかったのだが、苦痛も落ち込みとは違って嫌なものである。そして、何も考えず眠さにだけ堪えて会社に通っていた遠い日が思い出される。

 そして、外に出るのが怖い。年末、実家に帰るのが嫌だ。気が滅入る。今日は通院なのだが、外に出るのが怖い。運転免許証の更新はがきが来たのだが、それさえも行けるか判らない。父から相続した株の配当金(数百円)を郵便局に取りに行くのも、とてつもなく怖い。

 

 昨日のことである。生きた心地がしないという言葉があるが、生きている実感がない。生きていることが罪悪にさえ思える。罪悪感が身近にあると犯罪を犯しそうで怖い。そういうときは、思い切って死に寄り添ってみようと思った。

 私の書棚では、既読の本は、最近の図書館で見られるように著者名を五十音順で並べているのだが、本を並べた前に物が大量に積まれていて本が見えない。この辺… と思って物を除けたら、目の前に目的の本があった。

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  写真で判るかもしれないが、『冷めない紅茶』の方にはポリプロピレンのカバーがしてあって、あまりにピッタリなので最初から付いているものかと思ったら、どうやら、当時、東急ハンズプライベートブランドで出していたもののようだ。

 初版初刷だから、ほぼ、専門学校入学と同時、叔父の家に引っ越したときに買ったことになる。実家にいるときは買った小説さえ破り捨てられたので、当時は小説というものを大事にしていたのだろうか。ただ、叔父にも軽い純文学など読んでいては駄目だ、古典をサッとめくって読むようでなければと嫌事を言われた。

 そんな中、小川洋子氏の小説を選んで、しかも大切にしていたということは、すでに、希死念慮のようなものがあったのかもしれない。最初は地味な殺意がある『妊娠カレンダー』を読もうと思って引っ張り出してきた2冊だが、芥川賞受賞という大きな腰巻に臆して『冷めない紅茶』の方を手に取った。版元は、まだ福武書店だったんだな。

 メンタルの調子が悪くストーリー性もないので、なかなか読み進められない。結局は表題作1作しか読めなかった。内容を説明するのが難しい作品である。同級生の通夜から始まる、他の同級生K君と、その彼女との物語… と括ってしまえば終わりなのだが、その、K君と彼女の関係や、その2人と主人公との関係などが、奇妙な静けさをもって描かれている。

 まぁ、簡単にいえば、その静けさや、文中の言葉でいう懐かしさというのが死の象徴なわけだが、これは、もう、小川洋子氏の描写力が物を言っている作品だと思う。私は、これから精神病が酷くなり、文芸から遠のくのだが、今、同氏の『博士の愛した数式』を読もうという気にはならない。

 読後感は、良くも悪くもない。印象が薄いのだ。強いていえば、陽が落ちて遠くで子供の声がする中を家路に就くような寂しい感じだ。その本が、どうして、自分の記憶に、こんなにも刻まれていたのか不思議である。

 ちなみに、この本を棚に戻すとき、左には五木寛之氏の本が、右には落合恵子氏の本があった。これらの本を読んで憂さ晴らしをするか… と思うことは、少しは、心の闇から脱したのであろうか。

 そう思いたいが、昨晩、半ば無意識のうちに、また、Amazon鷺沢萠先生の著作(古本)を購入。女子大生作家としてデビュー、35歳で自殺。作品を読むと苦しみが伝わってくる。しかし、それらの作品に、私は感動する。私も焦って生きているのかな…。