身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

私にとって小説は常識でないことを立証するもの。

 今日から、また実家である。以前、書いたように、キチガイ夫婦が住む実家には、インターネットを使わないのにフレッツ光の回線が入っている。そこで、自分で使うためにプロバイダー契約をして、前回は、接続まで持っていった。

 実家にいるときは精神状態が悪いから、イラっとしてログイン認証ができなかった。もう、ジレッたくてジレッたくて仕方がなく、プロバイダーに電話をしたが、解決しなかった。再度、電話をしたら、あっさり解決した。その2度目のオペレーター曰く、記録には、私が訴えていることと違う問題が記されていたそうだ。

 昨日の区の職員との話もそうだが、話しても判らない人は判らない。それは、言葉として理解できないということではない。そういうものの存在を信じなかったり、思い込みが解けなかったりすることだ。私が、この問題で躓いていると思うと、そうとしか思えない人が多々いるし、私も、そういう部分がある。

 私は文筆で口に糊していた時期もあるので、言葉を尽くす労力は惜しまない。相手に判ってもらうのが、言葉の最大の目的であるからだ。語感がいいとか単語が美しいというのは付加価値である。これも、私が外国語で食っていた時期もあるから、実感として、そう思う。

 問題は、この、存在を信じられないことや、思い込みであったり、実感が沸かないことに対する対処の仕方である。論理で駄目なら情に訴えるという手法があるが、パッションというか、カーッとなった情熱のようなものがない場合には通用しない気がする。

 そこで出てくる手法が小説である。ジョイスに端を発する「意識の流れ」的な作品もあるそうだが(この「意識」の対語として「無意識」というのを使い始めたのが夏目漱石だといわれている)読んだことはない。しかし、語弊を恐れずにいうと、ほとんどの小説は例え話である。

 私は小説家の随筆や書簡を読むのが好きだ。むしろ、小説を読むのより好きかもしれない。なぜかというと、そこには、小説家が今の小説で立証しようとしていることや、その意気込みがストレートに表れているからだ。

 人によってはネタバレ・興覚めと思う人もいるかもしれない。しかし、私は、これを理解させたいんだ、こういう意気込みで書いているんだ… そんなものを知ると、より味わい深く小説を読むことができる。

 例として、昨日の、親は子供を思っているものだという話を挙げよう。そんなファンタジーを信じている方の方が少数派だと思うが。しかし、普通に言葉で言っても判らないのなら、やはり、何かを例示することが有用だと思う。

 それを社会の実例から引っ張ってくるのがジャーナリストである。今でこそ幼児虐待のニュースは人口に膾炙しているし、こういう時代だから、ネットで検索すれば、ごまんと出てくる。こういう事実がありますと例示するのも、ひとつの方法だ。

 しかし、そういう事実がない場合、そういう実例を想像力を働かせて作らなければならない。それは、事実をでっちあげるのではなく、もし、こういうことがあったら、どういう風に思いますか? と問うことで、フィクションではあるが、その人の「存在を信じられないことや、思い込みであったり、実感が沸かないこと」に考えを向けさせる手段だ。

 なので私は、自分の常識を覆えす新しい世界を見たいときや、自分の硬直した頭の中に答えが見付からなかったときなどに小説を読む。新たな価値観を見出すことは、私以外の人にとってもリフレッシュにはなるだろう。

 小説は、しょせん、作り事である。しかし、何かを伝えようという目的はノンフィクションと同じだし、伝えることを最大の目的とする“言葉”を使うことの醍醐味が、そこにあると思う。