身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

説明できない恐怖。

 しばらく眠りが浅い日が続いたのだが、薬が変わったせいか、久しぶりに熟睡した。しかし、疲れが取れず、コンビニに行ってコーヒーを淹れようとしたらカップごと落としてしまう。何も手に付かないし、外出先で転倒しても困るので、思い切って横になり休むことにした。ただ、ここ数年、横になると恐怖に襲われることがある。何に対する恐怖なのかと訊かれるが、判らない。

 人間、体験したことしか判らないといわれるが、出来事というのは、それが事実ではなくても、それがフィクションでも例え(喩え)でも、イマジネーションで何となく埋めることができるものである。ある意味、小説が成立する理由だ。

 しかし、この、説明ができない恐怖という感情に襲われたのは、40歳を過ぎてからのことである。一番、記憶に古いのは、東京拘置所でのシェスタの時間だった。拘置所にはシェスタ(午睡)の時間というのがあり、眠剤が制限されていたため、夜、眠れない分を、この時間に寝て取り戻していた。逆に、薬が残っていても、朝は起きてなくてはいけない。

 こう書くと拘置所は厳しく怖いところだからという人がいるが、私は容疑者であっても受刑者でもないし、判決も微細であることが想像が付いたから、判決や刑罰が怖いということはなかった。むしろ法治国家の法を司る省が運営しているところだから、むしろ安心していることができた。(移送されるとき、警察官に、警察署の拘置施設より拘置所の方が待遇が良いから安心してくださいと言われたくらいだ。)

 それに、刑罰に対する恐怖だったら、もう何年も昔に判決も刑期も終わっているのだから、そんなものは感じる必要性はない。なので、どうも説明ができない。星新一先生の小説に、例えば、宇宙人に拉致された人だけが判る感覚があるというものがあったが、星先生も、そういう、他人には判らない感覚を持っていたのではないかと思う。

 目標を達成してガッツをしたくなる時に感じた喜びと、宝くじに当たったり麻雀でツモったときの喜び、トゲが刺さったときの痛みと片頭痛の痛み。こう書くと何となく解るが、どんな時に感じる感情なのかも表現できないのだ。

 普通、眠くなって横になり、ボーッとした気持ちよさを感じることはあっても、それで恐怖を感じるといわれてもピンと来ないだろう。30歳の私でも、それは想像できないのだから、想像できない人の想像力を責めるわけにはいかない。

 世の中、知らない方が幸せという言葉がある。知らない方が幸せというのは、そういう楽しみがあることを知らなければ、それを求めなくて済んだということと、怖い思いをすることがなければ、同じ立場に置かれたことを考えなくてよかったという、両方の意味があるようである。

 

 40歳を過ぎて、初めて味わう感情。れが、どうしても説明ができないというは、なかなか厄介だ。理解してもらえないことは、当然、助けを求めることができないのだ。