身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

日本語のボキャ貧。

 ここのところ毎日そうではないかといわれそうだが、疲れ果てている。昨晩は遅くまで松戸の実家で母と飲んでいて寝るのが遅くなったのだが、今日は午前11時に東京の港区役所に行く約束をしている。
 普通の疲れに加えて酒疲れがあるが、のんびりしていたら根っこが生えてしまいそうなので、起きると同時に実家を出る。朝食は最寄り駅・北小金にあるマクドナルドで摂ろうと思ったのだが、スーパーマーケットの中にある店舗なので、そこが開かないとマクドナルドも開かないようで、食べ損なった。
 郷里に帰るなどというが、地下鉄で1回乗り換え、ドア・ツー・ドアでも2時間弱というのは里帰りに入らないらしい。たしかに感覚としては勤務先から外出した感じだ。しかし、そんなに距離を移動していないのに、疲れ方は異様だ。
 異様といえば、実家にいるときの心理が自分でも説明が付かない。実家にいる理由はないし、来ようと思えば、いつでも来られるのに、なぜか家に帰ろうという気がしない。これが、母親のことが心配という心理なのだろうか。そういう感覚をいだいたことがないので理解できない。
 さて、そのようなことがあって疲れているのか、スマートフォンを手に取っても書こうという気が起きない。私は1日の最後に、Facebookへ、その日の書けなかった漢字を投稿しているので、それから幾つか挙げたいと思う。まず、ものすごく単純な言葉だ。子供を「儲ける。」どのモウケルを使うのか判らなかった。子どもを手に入れることと金を手に入れることが同じというのに少し驚いた。次は「倹しい。」端的にいえば倹約の倹なのだが、そもそも倹約という字を書かない。同じように学校で習ったはずなのに書けなかった漢字に「食い扶持」・「足掻く」・「陰惨」などがあった。こんな語句が出てくるとは、いったい、どんな文章を書いているのだ。
 まったく知らなかった言葉に「いざり」という言葉があった。「躄り」・「膝行り」と書くそうだ。足が不自由で立って歩けない人のことを指すようで、聾とか盲のような嫌な響きがある。ともかく、ここ数日で、私は日本語を全く知らないということを実感した。本当に思想も哲学もないエントリーだが、今回は、これで終わらせていただく。