身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

底の浅い常識の押し付け。

 昨日は、立腹が激して酒を飲み、感情的になって疲れたため、まともな文章が書けなかった。今も疲れが取れず発熱が続いている。

 

 昨日、書きたかったことは、まず、保健師が駄目でだということだ。TVドラマ「健康で文化的な生活」は、ストーリーに関わる良心的な人しか描かれていないが、区役所で福祉の職に就いている人は、ああいう人が多いのは事実だ。そういう職員が、保健師本人から電話をさせますと言うのに、その保健師は相談に乗りませんと言い切り、架けろと言われたであろう電話すらしてこない。障害者にとっての保健師というのは、生活保護におけるケースワーカーのような存在である。熱心でなければいけない職業なのに、どうして、そうでない人がなっているのか。そして、どうして、熱心な職員が保健師ではないのか。

 そこで、区の施設に物を盗りそうになったことを相談すると、根拠もなく、過去に有罪判決を受けても執行猶予が明けるのを待って物を盗ろうとしているんだろう、善悪の判断が付かない根っからの犯罪者だと言われた。私が前科があることを公表しているのは、分別がある人でも犯罪者になりうるということを知ってほしいからである。

 呵責に苦しんでいるから相談しているのだ。悪いと思わないのなら平気の平左で相談自体しない。それなのに、善悪の判断が付かないという“決め付け”は揺るがない。医師に相談していると言って話を切り上げようとしたら、医者の言うように意識障害を起こすとか薬の副作用だとか、そういう問題ではないと食い下がる。そして、カウンセリングを受けさせない医者はおかしいとまで言った。

 かつて、私が有罪の判決を受けたときにも、裁判官に善悪の判断を付けるようにとは言われなかった。被害者感情についての言及もなかった。物を盗ったときの心理を考えなさいと言われただけだった。それを、どうして、この人は自分が浅く括ったことを押し付けるのだろうと思った。病気で起きられないと言っても、目覚ましを掛けて、朝、日の光を浴びなさいと言う。

 私は、ちょうど1週間前のエントリーで書いたように、不安定な気持ちを抱えているのは肉体面の疲れが足りないのではないかと思い、連日クタクタになるまで歩いていて、昨日も疲れが取れなかった。それも告げてあるのに、的外れな決め付けによる、全く心に響かない説教を長々として電話を切らせてくれない。犯罪者犯罪者と連呼して罵倒するので、嫌になって、こちらからガチャ切りした。

 自分の財布から金を抜かれたら、どういう気持ちになるか解るかとか、延々と続ける。私のことを善悪の判断が付かない幼稚な人間だと、これまた決め付けているようだ。逆に、私にとっては、そういう発想しかできない、しかも、それを見透かされているのも気が付かない人の方が幼稚だと思う。この人は、小学生が学校に通って授業を受けるように仕事をし、小説なんか読まないのだろうなと思った。