身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

感動するのも思い遣り。

 昨日は1人でワイン3本空けてしまった。それだけ悲しかった。私も、大きな傷跡が身体中に残っただけで終わってしまったが、同じ選択をしたことがあったので許せなかった。久しぶりにBlogにコメントをいただいたのが嬉しく、こちらも妙なコメントをしてしまった。申し訳ありません。

 酒を飲んだ夜は、なぜか汗をビッショリかいて魘される。昨晩もそうで、魘されながら必死に考えたのだが、起きたときには、考えたことを、ほとんど忘れている。昼も心臓が針で刺される感覚がして辛い。

 しかし、どうして、死ぬ人の気持ちが解らないのか考えてしまう。どうして、思い遣れないのか。それが上手く言葉にならない。想像力の欠如というのとも違う気がする。頭で考えることは、やはり感覚が伴わないと思うからだ。

 かつて「文学は私を楽にする。」というエントリーをアップしたが、そういう文章を読んだことで自分の気持ちを解ってもらえたと思うように、他人の気持ちも、それで理解することができるのではないか。文学作品の中でなら、同じ立場に立てるのではないか。

 かつて、某大学の文学部長が、文学作品には色々な不道徳なことも詰まっているが、知識人は、それに動かされることはないと話していて、この人は、感動しないものを研究しているのかと驚愕したのを、今でも鮮明に覚えている。

 しかし、感動が呼び起こされるときは実感を伴う。その実感こそが、他人の感情を理解するということではないのか。逆説的にいうと、他人の感情を理解するために、どんどん、そういう文学に出会って感動したいと思う。