身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

思索の交差点。

※音が出ます


2018年06月09日・渋谷ハチ公前スクランブル交差点

 

 今日は、"Tokyo Sihgtseeners' Guide"の渋谷編Part 4を書こうと思ったのだけど、色々あって疲れてしまった。

 まだFacebookのゴタゴタが続ている。かつて、「死にたい? バカなこと言うな!」というエントリーを書いたが、そのときと似た感じがする。

 死にたい人間に死ぬのは悪いこととか、疲れ果てている人間に頑張れと言うのは、正論だけど正しくない。

 正論は強い。その前には無力だ。生きなければいけないだろうし、頑張らなければいけない。

 それは、以前のエントリーで書いたように、電車に乗り遅れるのは家を出るのが遅いからですと言うようなもの。

  言葉は額面だけ捉えればいいものではないし、どんなに鈍感でも、ボロボロになった人の気持ちが感じ取れるはずだ。

 前エントリーで無責任という表現を使ったが、その人の疲れた気持ちを受け止めていない。受け止める責任を放棄している。

 話を聞いた以上は、聞いたという行動に責任を持ってほしい。それは、相手が求める言葉を掛けてあげるということだ。

 疲れた人たちが求めているものは正論でも叱咤激励でもない。それは、気持ちが一休みできる、優しい言葉だ。

 そういう優しさがないのに、無責任に、話に乗ります、相談に乗りますと言ってほしくない。

 この交差点に来ると、そういう色々な気持ちが言葉になる。なので私は、ここを「思索の交差点」と呼ぶ。