身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

メンヘラは言葉に囚われる。


細野晴臣&小坂忠「ありがとう」

 

ありがとう 君の気まぐれに ありがとう

ありがとう 君の出鱈目に ありがとう

お世辞も 皮肉の言葉にも ただ どうも どうも

口から出る言葉は ただ ありがとう だけ

ありがとう 君の嘘っぱちに ありがとう

ありがとう 君の薄笑いに ありがとう

お世辞も 皮肉の言葉にも ただ どうも どうも

口から出る言葉は ただ ありがとうだけ

どうです 僕は大地のように 関わる全てを 受け入れるふり

だんだん馬鹿に なってゆくのです

 

 自分もメンヘラなんだけど、だから暴力的な言葉というのは心に刺さる。お礼を言って適当に流すようになったが、しつこいのとか力説には弱い。

 昨日のエントリーに書いたことと同じようなことをFacebookで書いて、友人に意見を募った。もちろん問いかけという形を取った。

 弱っているときは休みなよという意見が多い中、独りだけ、800字くらいの長文のコメントがあった。核心と思える言葉を抜き出す(原文のまま)と

 

自分を責め過ぎているだけで、自分「が」責めていないだけ。

 誰か解釈してください。全文は引用しないけど、簡単にいってしまえば、自分をもっと責めろということだろうか。

 曰く、万引きは善悪の判断が付かないだけ、玄関の鍵を締めなかったのは注意が足りなかったため。両親は老いただけで悪くはない。

 ちびまる子ちゃんの主題歌「おどるポンポコリン」の「エジソンは えらい人」以上に、他人の物を盗ってはいけないのは常識だ。

 誰でも解っている悪いことをしているから、ふだんは不注意で鍵を締めないことはないから訊いているわけだし、老いた両親を良いとも悪いともいっていない。

 見兼ねた友人が、そのコメントに対して、追い込まないようにと書いたのだけど、コメントした人は、それを私に対して書いた文章だ(私を追い込んでいるのは私自身だ)と思ったようだ。

 ここまで書いて筆が止まった。適切な表現が見当たらない。すべての主語や目的語が、ことごとく自分なのだ。他人が口を挟む余地がないといったところか。

 自分は正しいことをいっているという自信。それは他人からの批判や訂正を拒絶するのだ。逆に、自分のいった言葉の規範から抜け出せない自分も許せない。

 私も、放っておけと思うが、強い言葉、大きな声には、正しいか否か以前に囚われてしまう。嫌なことは聞かないんだろうという調子でいってくるが、誰でも解っていることを、どうしろというのだ。子供を叱っているのではないのだ。

 私は、この人の子供でなくて良かった。私が子供だったら自殺している。ちなみに、この人は子供はいない。職業はスナックのママだが、経営は、どうなんだか。

 

 

 さて、腐々した私は、明治神宮に参拝。明治神宮というからには、祀ってあるのは明治天皇なのだろう。明治天皇を拝んでいるわけだ。

 そして、北参道に抜け、なんとなく神頼みが足りない気がして(苦笑)鳩森神社へ。将棋の羽生名人が結婚式を挙げたところ。

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 普通の町の神社なのに神楽殿があるって凄くないですか? しかし、千駄ヶ谷からバスで帰ってきて、なんか消化不良の1日だった。