身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

悲惨な人生。

 新たな読者は増えているが、同時に以前からの読者が離れている。新たな読者は暗い重い話が嫌いだと思うが、やはり、こちらが私の神髄なのだ。

 今日は通院だった。早く着き、田町駅でお昼。いつもは蕎麦を食べるのだが、なんとなく食べる気がせず、ドトールでコーヒーを飲む。

 診察開始と同時にクリニックに入ったら、1番に診てもらえた。午後4時半の予約なのだが、間に入れてもらえるので早く行く習慣ができている。

※音が出ます

 

 今日、先生は私に1週間の生活を報告させた後、しばらく、うーんと考えていた。そして、○×さん(私)にしては良しとしましょうと言う。

 私としての基準というのは高いのですか、低いのですかと訊くと、とても低いという。なんかね…。

 この先生に初めて診てもらったとき、以前、通っていた名医と言われた先生との出会いもあり悲惨なだけの人生ではないと言われた。

 逆をいうと、その先生に出会わなければ救いようがないほど悲惨な人生だと認定できるほど酷いのかと思った。

 

 そして、昨日、PCで「るい」まで打ったら「累犯障害者」という候補が出てきて、私も前科があるのでドキっとした。調べてみると、「累犯障害者」という本があって、都立三田図書館に所蔵があったので、ちらっと見てみた。

 序章の最初の方で、すでに

自由も尊厳もない刑務所の方が暮らしやすいとは。塀の中の暮らしは、障害者にとってそんなにも過酷なのか――。

 という言葉が出てくる。

 この刑務所の拘置区に収監されている福田被告は、まだ受刑者ではない。したがって、本来なら私服を着用しているはずなのだが、早くも鼠色の囚人服に身を包んでいる。たぶん、服の持ち合わせがないのだろう。

 私も容疑者の段階で囚人服を着ていましたが、それは服の持ち合わせがないというより「制限が厳しいから」着なかった訳で、基準に合う服をポンポン差し入れてもらえる方が恵まれているんだよ。

 給与秘書給与搾取という申し開きのできない罪を犯した私は、一審での実刑判決に従い、刑務所に服役した。

 ともあり、罪を素直に認めた自分でさえ冷遇されたという書き方だが、それが全然、冷遇に見えないのだ。

 本書の序章を簡単にまとめると、こうだ。障害者の一種は境遇に恵まれておらず、それよりはマシな環境である刑務所に入るために犯罪を犯す。

  「現在の私は、障害者福祉施設に支援スタッフとして通う」そうだが、どうせ障害者を下に見て、自分は恵まれてるよなって思ってんじゃないの? と思った。

 彼は、障害者は不幸だ不幸だ、故に犯罪を犯すのだというような書き方をしてるが、それでは幸福とは何だろうと私は思う。

 自分より恵まれていない人を見て自分が恵まれていると実感することなのか。山本氏は知らないが、多くの人は比較の問題ではないと思うだろう。

 彼は「自由」と「尊厳」という言葉を使っているが、刑務所の外には、そういうものがゴロゴロしているのか。

 そんなわけはない。1日の1/3以上、会社に押し込まれて、客や上司に頭を下げている多くの人間に、そんなものがあるわけはない。

 それまでの犠牲を払ってまで手に入れようとする、例えば僅かばかりの余剰金で一杯飲もうかなとか、家族の笑顔が見たいとかがある。

 

 酒や家庭に限らず、そのために犠牲にしてもいいと思えるほどの何かを持っていることが幸せなんじゃないの? というのが、今日の私の結論。

 医者は患者を幸せにすることが仕事なので職務の遂行のために他人の幸せを考えるのが必要かもしれないが、他人の不幸を量ってというのは、ちょっと違う気がする。