身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

踊る阿呆。

 今日は1週間ぶりの外出。といっても通院です。もう、ぜんぜん外に出ていない。最寄りのJRの駅までなのですが、なんか疲れました。

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 外出先で、みんなTOKIO山口達也氏の記者会見を見ていたので私も見たのですが、誕生日が私と10日しか違わないという…。

 もう、いい歳です。山口氏を甘いなぁと思って見ていた私ですが、だったら自分は何なんだというブーメランが返ってきました。 

 なんか、自分はダメダメだなぁと、疲れとの相乗効果で、ちょっと落ち込んでいます。行く前に書いた文章をアップしますね。

 

 最近、TVドラマを観ていて思う。この、作り物の世界に入り込んでいくのは恥ずかしいことなのか。

 というのは小学校2・3年のころの出来事が、いまだにトラウマのように心の中に巣食っているからだ。

 国語の授業でゲームのようなことをしていた。内容は忘れたが、言葉遊びのものだったと思う。

 私は熱中したのだが、ふと先生がそれを止めて、これは幼稚園で流行っているんですってと私を馬鹿にしたのだ。

 先生の、恥ずかしそうだろうという風に私の顔を見た表情は、今でも覚えている。

 私は管理が厳しい家で育ちTVなど見せてもらえなかったのだが、先生はTVドラマを観ている様子。

 私が幼稚園生のゲームに熱中するのが恥ずかしいというのなら、TVドラマに興じるのは恥ずかしくないのか。

 そんなことはないと思う。与えられた状況に、すっぽり嵌ることは恥ずかしいことではない。

 掲題のように、例えば祭り。傍から見ると馬鹿げたことかもしれないが、楽しんだもの勝ちだと思う。

 正直いって、この体験をしてから長い間、何事にも熱中すること馬鹿らしいとしか思えないようになった。

 最近は、ノンフィクションにしても、どうせ起こった出来事を記録・再現したものだし現実ではない、監督が、そう見せたいのだと思うようになった。

 孫悟空も、お釈迦様の手の平から出られなかったように、どうせ皆、何かに遊ばされているのだと思うようになった。

 そして、この、居直りとも開き直りともいえる考えを持ったら、バカらしいと思った方が負けなのだと思えるようになった。