身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

刺激と同調。

 以前にも書いたが、私は読書などをインプットといい著述などをアウトプットというのが嫌いである。読んだものをそのまま書くのなら、それは未消化な単なるコピペである。

 さて、昨日は通院だった。日中、何をしていますかと訊かれ、なかなかTVドラマや映画を観たいけど観られないんですと答えた。本を読もうと思っても身が入らないんですとも答えた。

 楽しみがあるといいですねと言われ、Blogを書いているのだが、どうも面白くないとも答えた。そりゃそうでしょうね、と言われる。どうも主治医もインプットという言葉がぴんと来ないらしく、インプットというより何か刺激が欲しいですねと言われる。

 刺激といえば、昨日、一昨日放送されたTVドラマ「東京タラレバ娘2020」を観た。眠剤で寝ているので、午後9時を過ぎると朦朧として観たことを覚えていないから昨日観た。しかし、よく船盛が出てくるな。

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 原作は知らないが、ほとんど連続でやっていたときと内容が変わらない。そうそう、主人公は和朗フラットに住んでいるんだっけ。まだ引っ越していないんだ。ちなみに賃貸で借りると、あの広さで15万円程などで、立地からいうと高くはない。(2017年4月24日撮影)

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 その中で、結婚式で男を取られる主人公が、相手の女の勤務先にやったことをバラしてやりたいと言って、これは笑い話であるのだが、私はネットストーカーのことを考えるとシンパシーを感じてしまう。

 以前のBlogの目指すところは硬派な文学作品だった。毎日、書くのが苦しかった。しかし、遣り甲斐はあり、熱狂的に支持してくださる読者もできた。それを、茶々どころか嘘を加えてファンまで襲い閉鎖させたネットストーカーは、本当に、勤務先にバラすどころか殴り殺してやりたいと思う。

 どうして、ここまでネットストーカーへの恨みが大きいのかというと、それだけのことをされたからである。そして、以前のBlogの、苦しいけれど、それに伴う達成感というものが忘れられないからだ。

 そういう意味で、ネットストーカーは強烈にイヤな刺激であった。いや、10年間、毎日私をヲチしているというから、イヤな刺激であると言った方がいいのか。

LINEは所詮、元Livedoor。

 ネットストーカーが私を誹謗中傷するBlogをライブドアブログに開設している。そこで私の写真などを無断で載せているので削除依頼を運営元のLINEに出した。開設者より削除しないと回答が来たので削除しないという。

 ネットストーカーは過去、いろいろなBlogサービスで私を誹謗中傷してきたのだが、削除しなかったのはLINEが初めてでビックリ。というか、方々で削除されて流れ着いたのがライブドアブログで、やっと安住の地を見付けたということか。

 さらにネットストーカーはLINEから来た削除依頼Eメールも載せ始めた。LINEが私に送ってきたEメールは転載禁止と書かれているのに、お前はネットストーカーには禁止しなかったのかとLINEに問い合わせた。

 即時に返事が来たのだが、このような文面を送りましたという写しが送られてきただけ。そこには転載禁止と書かれていて、お前、転載禁止と書きながらネットストーカーが転載したことについては何もしないのかと返信した(転載されているページのURLは、それ以前に当方からのEメールに記載済み)。

 こういう文面を送りましたという写しは1時間もしないで来たのだが、今回は、丸1日たっても来ない。そして、所詮「NAVERまとめ」や「したらば掲示板」を運営していたLivedoorなんだなと思った次第だ。何が「LINEみらい財団」だ、鼻で笑っちまうぜ。

目的のない文章とSNS。

 言葉には何かを伝える目的がある。言葉に限らず表現というものはそういうものだろう。目的があると目標が生まれる。目的をどれだけ達成できるかということだ。例えば美味しいケーキがある。ケーキの美味しさの何割が伝わるか。

 先日、ある社会的地位がある人に誰にも読ませない文章があると言われ目が点になった。そんな文章があるかいと言うと日記がそうだと言う。日記だって後日、自分が読むためのものだ。もうひとりの自分が読むと言っていいだろう。

 先日、文章が上達するには日記にも向上心を求めるべきというようなことを書いた。そのためには何を書くべきかという目的がなければ描き切るという目標が生じず、向上心が介在する余地がなくなる。

 実は今、無目的にこれを書いている。Twitterで流れてきた「書くことがなくて書いているBlog」を見てみたのだが、やっぱり面白くない。今までも「解らない」を表現する文章を読んで面白くなかった思いが多々ある。

 あぁ、今、書いているこのエントリーも面白くないんだろうなぁと思う。しかし不思議なのは、それらの「書くことがなくて書いているBlog」にもコメントが付いていることだ。そこで、文章を理解するとは何なのか訳が判らなくなった。

 文章でなくてもいい。絵でも音楽でも白紙が1枚とか全くの無音というのは果たして表現なのか。そして、皆、それについての感想を述べず、それを書いた(書けなかった)人についてコメントしている。

 コメントの対象は作品ではなく表現者である。作品不在である。表現物の背後にある人間とのコミュニケーションを目的とするのは、すでに作品発表の場ではなくSNSである。まぁ、作品の評価ではなくもコメントが付いているのは羨ましくはあるが。