身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

死にたい? バカなこと言うな!

 私には万引きの前歴どころか前科がある。その前の医師は「その病気で、その状態になるのは普通のこと、それを意見書として出します」と言っていたが、万引きが立件されたときの医師が、単に善悪の判断が付かないだけといって、それを認めなかったのだ(小学校で道徳の授業はあったんだけどね)。検事というのは有罪にすることが評価に繋がるらしく、病名が○○でなくて良かった、それ以外だったら確実に有罪が付けられるからな、と言った。

 そのときは、拘置されて逆にホッとした。拘置所にいれば誰にも責められずに、犯罪を犯さなくて済むと思ったからだ。悪いという感覚があるから自責の念が生まれるのだ。それまでは、努力しても責められていた。東京拘置所に拘置されていたが、刑務官も、私の言うことに、きちんと回答してくれた。「仕事として死なれちゃ困るからさ」とは言っていたけど、お為ごかし(照れ隠し)な気がする。

 刑務官に言った。死にたいと思った。それは、どうして? と訊かれた。私の問題を、いちいち訊いて、その問題は、こう解決できるでしょうと希望を持たせてくれた。すべての問題を根本から解決しようとしてくれた。精神が平穏になるのは数年ぶりだった。それが、私の友人は原因を訊かず「バカなことを言うな!」でオシマイ。

 「生きてりゃいいことあるからさ」みたいなことを言う人を、私は信じない。お前は私が生きていて味わった地獄を、未だに、いや、一生、味わわないんだろうなと思う。死ぬほどの苦しみ(程度でなく本人の捉え方として)を味わった人しか解らないんだと思う。

 捉え方の問題で、電車に乗り遅れた死にたい、と思う人もいるかもしれない。しかし、それは、その人が、それを何よりも苦痛だと思っていて、それほど弱っているからだ。会社に迷惑を掛けるのなら死にたい…。だからといって、電車に乗り遅れるのは普通のことです、家を早く出ましょうというのが解決になるか?

 同様に、世の中には、理由が同じだろうと思って、もっと苦しんでいる人がいるんですよ… ということが、その人の気休め(?)になるのか? それもNOだと思う。世界には飢餓に苦しんでいる人が○万人いるんですよ、と言われた拒食症の人を知っている。反面、世界にはフェラーリが買えない人が沢山いるんですよと言われた富豪も知っている。欲しいものが世間にあるけど欲しくないことと、世間にある欲しい物が手に入らないことも違う。

 

 自分の価値観では括れない人が、いや、括れないから苦しんでいる人が沢山いる。あぁ、問題は、そこでしたか、と改善できる問題なら、誰でも改善する努力はすると思う。生活を、より良くしようと(何が良いってものではなくて、自分にとって、より生きやすくしようと)思うのが普通だと思う(今の安泰を維持するということを含め)。努力の方向は違うかもしれなけどさ。


 努力では立ちいかない人がいることを理解してほしい。いくら頑張ったって、私たちの努力って認められないのよね… と思うと同様に、いくら頑張ったって、私たちが追及する幸せや価値観って、世間では認められないのよね… という人がいることを。会社や役所に行って給料を貰って、その金で家族を養ったり遊んだりするのが幸せなのか?

 

 すごい単純な話をすると、たまたま今、LGBTの人が話題になっているので例えると、同性愛者に、こんな魅力的な異性に、ときめかないの? と言っているようなもの。これは比較的メジャーだけど、だったら宝塚の男性役に憧れる女性って、どうなんだろう? 男性的な魅力を求める女性は異常じゃないの? それは世間的にOKだからOKなの?

 

 ちょっと解りにくい例示ばかりになってしまったけど、人間、生きたいのが普通だろう? 死にたい、バカなことを言うなという人は、ちょっと無責任が過ぎる気がする。私は、生きていることに悦びを覚えないで生きている。経済的に恵まれている私でもそうなのに、生活保護で、生きたくないけど嫌々、生きている人、より良く生きたいけれど努力が削られてしまう人など、何とかならないものかと思う人が、私以外に沢山いる。

 

 バカなことを言うな! というのは、そういう人の心情を察せず、根本的な解決をしようとせず、世間の多数が正しいというもの、自分が正しいと思うことの押し付けに過ぎないと思うのだ。

 

 

2018年6月付記

そうそう言ってしまいそうな方は、こちら。「思索の交差点。」

 

2019年05月29日付記

他人を巻き込んでの自殺にも、どうか1人で死ねと言わないで欲しい