身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

私の学歴について。

 今日のエントリーは、まったく違う内容で書き始めました。ここのところ、Blog記事がスランプに陥っていることを書こうと思っていたのですが、書き始めたら、こちらの方が主力テーマになってきたので、そっちを書きます。

 

 私は今、障害者年金で生計を立てている。生計を立てているといっても、私は1人暮らしながら持ち家で家賃がなく、それでも、やっていける最低限の額を割っていて、足りない分は両親に仕送りしてもらっている。

 たまに勘違いしている人がいるのだが、障害者年金というのは障害がある人に給付されるので、障害がなくなったら給付されなくなる。それを、最初に認定を受ければ既得権としてずっと貰えると思っている人が多い。

 私が受給権を持っている「精神の障害」は、2年に一度、診断書を提出することになっている。それには現在の状況だけでなく、過去の病歴などを書く欄もある。その、かなり上の方の欄に「教育歴」という項目がある。

 それで診断書を見たのだが、主に普通学級に行っていたのか特別学級に行っていたのかを見るものらしい。ちなみに私の場合、小学校から高校まで「普通学級」、高校のところに「退学」、その他のところに「専門学校卒」と書かれている。

 私の忸怩たるところは、「高校退学」というところと、最終学歴が「専門学校卒」で止まっていうところだ。本来なら「高校退学」で、最終学歴が「大学卒」であるべきなのだ(本当は大学は社会人で入学しているのだけど、入学しただけなので、ほとんどの人には言っていない)。

 高校は偏差値は高いけどクソみたいな高校で、特待生として入学したのだが、勉強で入ったのだから勉強をしなければならないと朝の8時から夕方の6時まで学校に束縛された。部活は推奨されるどころか禁止だった。後に高校が学校教育法違反で指導を受けるが、道徳やホームルーム、美術の時間も勉強のために削られた。

 それで解放されるのかというとそうではなく、学校は家でも5時間、机に向かわせろと親に命じ、私の家族は「鎌倉は命の恩人。」のエントリーで軽く触れたけど、変な家族だったので、他の生徒の親は家では子を労わったのに、うちの親は高校に洗脳されていたので、それを忠実に守った。

  私は中学時代まで、勉強は好きだった。というか、今でも好きだ。それが、高校時代は勉強が嫌だったというより、あんなものは勉強でないと思っている。私が若いころ、北朝鮮の学習スタイルが、北朝鮮は非人間的である一例として、よく放送されたのだけど、笑えなかった。

 どの科目も「覚えろ」といって参考書を1科目あたり2・3冊与え、まったく教えないのだ。私は英単語ですら、覚えるという学習方法には懐疑的だ。その後、英語の専門学校を良い成績で出て、あぁ、私の学習法は間違えていないと思った。でも、向き不向きがあると思う。高校の勉強方法でバカな生徒が東大の理Ⅲに受かった(医者志望で理Ⅲに入りながら医学部に入れなかったどころか就職もできなかったけど)。

 私が英単語が覚えるものではないというのは経験からで、漢字も書きとりとかはしなくて部首などで覚えた。丸暗記なら忘れたときに考えても出てこないというのが理由だ。構造を覚えれば、忘れても、そこから組み立てられる。そんなやり方でも国語の成績は、全国区でも良い成績だった。英語も、私は早い時期から英米国の国語だと意識していたので、高校での英語の成績は全校で下から何番でも、何とかなると思っていた。

 まぁ、時間が限られているから、百歩譲って英単語は覚えるものとしても、数学とか国語の読解まで覚えるのものなのか。私には人間を辞めてスーパーコンピューターになれと言っているようにしか思えない。膨大なデータを抱え、エミュレーションしろと言っているようなものだ。

 知識だけで大学に行こうと思うと、それだけの知識を蓄えるのには、そのなりの時間が必要なのだと思う。でも、私は、暗記が大っ嫌いだ。暗記力がないわけではない。電話番号が1つなら、メモは取らない(会社に入ったら、上司が10件メモも取らずに覚えてしまったのには驚いた)。

 暗記が好きな人には向いている勉強法のようなので、ありなのかなと、今になると思うけど、同時に、そんな今でさえ、あれは勉強でないとも思う。大学を良い成績で卒業したり幸せな生活を送っているのは、進学クラスじゃない人間ばかりだ。しかし、私の精神障害は、このときに現れたから、たしかに学歴と障害は関係があるのかもしれない。

 私が通っていた高校の異常さを挙げると、社会に出て先輩のOLさんに「あの高校って服装チェックが厳しくて女子生徒のスカートをめくって裏地まで調べるって本当?」と言われたのだが、あぁ、そんなことがあったな程度にしか覚えていない。もっと強烈なのだ。

 例えば、校長は、自分の功績を讃える銅像を校庭に作り、気に食わない教師は片っ端からクビにした。私も「目が気に食わない」といって1日に4時間くらい、廊下に正座させられた(なおさら勉強が遅れる)。ちなみに、その校長は、のちに刑務所に入ったらしい。例えば、学校では毎日、放火があった。

 本当に枚挙に暇がない。虫唾が走る思い出ばかりだ。私は、そんな高校が大っ嫌いだった。学校側からも嫌われていると思っていたのだが、私を嫌っていたのは校長だけのようで、校長に怯えていた他の教師は、私に同志みたいな感情を覚えていたらしい(苦笑)。

 なので私は、すぐにでも高校を辞めたかった。その高校にいることが恥だと思った。しかし親は、あの高校は、学費を只にするから来てくれというほど、あなたのことを非常に評価してくれている有り難い学校で、あの高校のいうことを聞けば東大に行けると繰り返した。

 はっきりいって私は東大に行くつもりは微塵もなかった。今、入学を許可されて、成績を保証されても行かないのではないか。私は東大病院で生まれて近所に住んでいたので目にしているが、変な学生が多い。会社に入ったら、東大卒のサラリーマンは、みんな仕事ができなかった。学者か官僚になるのには良いのかも知れないが、会社員としては、どうなのか。

 だから、そんな高校は、とっとと辞めて大検(大学入学資格検定・当時は高卒認定なんてものはなかった)を取って大学に行こうと思っていた。あの高校の卒業生になるなんて恥だと思った。2年でスパッとやめて大検を取りたかったのだが、高校と家族が辞めさせてくれない。それなのに精神を病んで高校3年次は学校に行っていない。

 高校も家族も、いてほしいのなら、いられる環境を作れと思うのだが、高校3年次は、ノイローゼになって精神病院に入院した。この前後から、私の記憶は、ところどころ欠けていたり整合性がない。このBlogでも齟齬が出ているかもしれない。私が話すことが現実味を持って信じられないのと相まって私を虚言癖だという人間もいる。

 高校3年が終って、もう1年籍を置けば、推薦で、そこそこの大学に入れてやるよと言われた。高校の世話になりたくない私は、周囲の反対を押し切って、ようやく辞めた。そして大検を取った。この「はてなブログ」のトップに、高卒認定を取ろうとしたタレントのBlogが上がっていたが、大検なんて、あんなに甘いものではない。

 大検の成績表が手元にないのだが、何単位あるのか知らないが8科目で取れる高卒認定とは違うと思う。高卒認定があったら高校に行かなくなる人は増えるのではないかと思う。1年で取ってしまって、残り2年、大学の受験勉強や予習に充てられる。私の時代ですら「中卒・東大一直線」というドラマがあったくらいだ(部屋に監禁されてTVは見させてもらえなかったので内容は知らない)。

 それでも、家ではなく精神病院から向かった大検の試験場では、中卒レベルの勉強を必死になって復習している人が多くて、この人たちは何年計画で取るんだろうと思った。今になると逆に偉いと思う。当時はサポート校なんてなかったので彼らは独学で、高校に再入学する方が、よほど楽な道だ。

 なので、大検を取った時点で、すでに1年浪人している人たちと同じ年なのだ。それで、さらに1年、浪人した。それも、テストで落されるのならまだしも、これも褒めらべるべきことだから学校名を挙げると、東洋大なんて不合格理由をちゃんと通知してきて「調査書による」と書かれていた。ソリが合わない高校が私をよく書くわけがない。

 このまま働こうかなと思っていた。この変な家族のもとにいるとスポイルされてしまうと思った。実際、このBlogの初回のエントリーに書いたように精神病院に閉じ込めておこうとしたのは、家族だ。

 それを、叔父が、どうしても進学しろと言う(今さらながら書くと、私には両親と叔父以外、兄弟も家族も親戚もいない)。親が渋っていると、うちに来い、うちから通えと言ってくれて、私は願書締め切り日に、その英語の専門学校に願書を出した。

 入学試験は、イギリスのカリキュラムに沿ったものが使われた。私にとってはラッキーだった。暗記・暗記で来た人には、逆に、それは不利になる。さらに面接があったので、調査書は、そこで挽回。30クラスあるうちの上から4番目のクラスに入った。

 ただ、上のクラスに入って辛いこともあった。下のクラスに入れば、もっと基本から教えてくれるのに、上のクラスに入ってしまったために、いきなり応用編だ。ノートも、どこを取ったらいいのか判らなくて、ちゃんと授業に出ているのに同級生に借りた。

 同時に、人生で、一番、楽しい時期だった。毎日、麻布仙台坂という急坂がある通学路を自転車で通ったが苦にならなかった。東京の地理が判る人には麻布仙台坂上と神田駅前の往復と行ったら判ってもらえるともうが、10㎞くらいだろうか。Googleマップで調べてください。内風呂もなかったので片道歩いて20分の銭湯通いだった。

 それでも、もう、勉強が楽しくて楽しくて、本領を発揮している実感があった。そうこうしているうちに、2年次には一番上のクラスに入っていて、成績も、上から4番(海外経験がない人間ではトップ)になっていた。

 そして学校に進路希望を出すように言われ、私は当然「進学」で出した。その専門学校の単位は全国で初めての大学互換の単位で、大学の3年時に編入できるから、その専門学校にしたのだ。そして、家族も進学できたら進学していいと納得していた。

 叔父に話してみると、判った、お前の生活態度を含めて、ちゃんと親には話をしておくということだった。やっと報われた感があったが、また、ここで覆された。いちばん遅い、併設の大学の願書締め切り日になっても親のOKが出ないのだ。

 毎日、ぜんぜん帰ってこない叔父を寝ないで待ち、どういうことかと問い質した。

「勉強なんて嫌いなものに決まってんだから、毎日、机に向かって長い間、勉強なんてできるわけがないだろう! それを俺が昼間、家に様子を見に帰っても、お前は朝から晩まで机に向かっているじゃないか! どうせねボーッとしているんだろう! お前には覇気がない! 本当に学生時代を謳歌するということはアルバイトをして遊ぶということだ! そのために俺はお前を進学させてやったのに!」

 本当に死のうかと思った。こいつ、夜は帰ってこないくせに昼は仕事をサボって俺の様子を見に来ていたのか。しかし、叔父が変な人間だと早く気付くべきだった。やっぱり母の弟だし、父とは親友以上に仲がいい。それに、考えてみれば兆候というものはあった。

 ほんの一例だが、学校から帰って叔父が待ち伏せしていて、なにかと思ったら「警察が来た、お前みたいに怪しい奴がいるから警察が来るんだ」と言った。単なる定期巡回だと判っていたので、勘違いか思い過ごしをしているのだろうと、私は放っておいた。

 叔父ではなく高校の同級生にだが、私が専門学校に入ったときに、そんなの、誰でも入れるんでしょと言われた。そいつは高校で同じクラスにいたのだが、やはり学校とは合わなくて進学クラスから落ち、そして全ての大学に落ち、私立大学の夜間部に高校推薦で入ったのだが1ヶ月も経たないで辞めてしまった。

 いくら私が高校を辞めたといっても、在学中は、いくらなんでも、そいつよりは成績は上だった。もう、本当に「いくら…」の連発だ。しかし、自分の家族との共通項で、東京の人間は、他人を下に見ることで自尊心を保つところがあるのかなと思っていた。なので私は自分を江戸っ子と名乗るのは、ちょと嫌だ。

 その同級生は、私が病気で苦しんでいるときに、昼から酔っ払って電話を架けてきて、お前みたいに、いつでも好きなところに行けて好きなときに酒を飲めるような生活をしていてはダメだと絡んできたり(他にもある)するので縁を切った。昼から酒を飲んでいるテメェが何を言う。

 高校の他の同級生に話してみると、あいつは高校時代の我々が知っている彼とは違うと言う。同級生の女の子に、自分と会ってくれないと何をされるのか判ってるんだろうなというようなEメールを同級生のメーリングリストに投げてきたから全員でブロックした、遠ざからなければ危険だと言われた。

 その後、前出の「鎌倉は命の恩人。」のエントリーのように、私は叔父に家を追い出されて独り暮らしを始めた。1人で住んでいるのに私の父と叔父は私の留守宅に上がり込み、また勝手な夢想などを始めたが話が逸れたので後のエントリーに譲る。

 なので、「専門学校卒」が「大学卒」でないのが忸怩たる思い(「専門士」という学位が授与されるのは私の次の年からだし)であるのと同様に、高校「中退」は「卒業」でないのが忸怩たるのではなく「退学」でないのが忸怩たる思いなのだ。

 


 

  ちょっとこれ、今日まだ4日だよね? しかも、このBlogを始めて28日目なんだけど、そんなに読まれるものなの?

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