身の上話

身の上に起こった、嘘のような本当の話。タイトルは佐藤正午作品から。

父とニコンと学徒動員。

 

 私の父は寡黙とか言い訳をしないというと格好がいいが、頑固で何を考えているのか解らない。解らない理由で突然、怒り出したりする。当人の頭の中では独自のロジックが働いているらしいが、以前、書いたように思い込みばかりで客観性に欠ける。

 私は病気で会社を何度もクビになった。会社は変わっても、やっている仕事は変わらないのだが、後に刑事裁判に被告人として出廷したときに、検事に「被告は職を転々とし…」と嬉々として言われた。

 さて、20代半ば、履歴書によると(=フルタイム労働では)4社目の会社になる。裁判では4社目で「転々として」って言われちゃうんだから検事という人間は卑怯だ。私は貿易実務のスキルがあり、新卒のときから、ほぼ、そればかりしていた。

 私は写真が好きで、写真の専門学校に行こうと思ったこともある。ただ、吝嗇な私の家族が教材のカメラを買ってくれるわけがない。好きなものより得意なもの、ということで英語の専門学校に通った(高校での偏差値は30だったが物になる自信はあった)。

 ブラック企業で働いていたところを、学校のOBが、たくさん働いている丸の内の商社に助けられた。当時は鉄鋼の輸出に従事していたのだが、工場(鉄工所)に見学に行く訳にもいかず、自分が扱っているものが漠然としか解らなかった。

 そして、どうせならカメラの輸出をしたいと思った。幸いにして当時の日本はカメラ製造大国だったので、正直いって、どこの会社でも良かった(笑)。それが、かつて務めていた丸の内のグループ会社に株式会社ニコンがあった。

 仕事っぷりは解っているからということで、無試験で採用となった。無試験といっても、当然、面談はある。クリスマスの日だったと思う、部長と東京會舘で会った。私は翌年から出社するつもりだったが、翌日から来てくれという。

 両親にもニコンに勤めることは報告した。商社ほど多忙でないし、両親も私のことを職人向きだと思っていた節があるので、このことは喜んでもらえると思っていた。しかし、そういう独自回路で回っている父のこと、何を考えているのか不機嫌になった。

 結局、ニコンは2年で辞めた。1年目に鬱が出て休職、会社から3ヶ月の休職を貰ったのだが、タチが悪い先輩から、心証が悪くなるから早く出ろと、毎日、電話が架かってきて、1ヶ月も休まずに復職した(ちなみに福利厚生が厚い会社で、法規的には休職手当は基本給の6割でいいのだが、7割出たので休んだ方が得だ)。

 2年目に「これ以上、会社に迷惑を掛けないでくれ」と部長に言われた。ちなみに病気を理由にクビにしているのだから退職理由は会社都合、失業給付は待期期間なしで支給され、職業訓練を受けると給付期間も伸ばされるので、かなりのスキルを身に付けた。

 クビになったことを父に話したら、今度は、それを喜んだ。当然、私としては釈然としない。父親に詰め寄った。そうしたら、こういう話だった。父は横浜出身で鎌倉学園の生徒だったが、昭和4年生まれなので学徒動員に引っ掛かってしまったとのこと。

 今は大船にあるニコン(父の時代は日本光学工業)の横浜製作所は当時、磯子にあって、学校が近いということで毎日、工場で潜望鏡を作られていたとのこと。前述のように何を考えているのか解らない父だから、それ以上は話さない。

 ニコンは単なるカメラ会社でなく総合光学メーカーだから(当時は、映像専門メーカーならともかく、カメラが最も売れている総合光学メーカーというのはなかった)私もカメラ以外のことにも従事していた。

 今、ニコンの横浜製作所は産業機器(ニコンインステック、ニコン・トリンブルの製品)を扱っている。なお軍需製品は水戸ニコンの扱いとなっている。ニコン・トリンブル(私の在職中はニコンジオテックスという社名だった)の製品は興味深かった。

 「興味深い製品は」徹底して勉強するので、熱心に勉強するから見学に来ないかと横浜製作所のエンジニアに招かれたが行かなかった。ちなみにカメラファンの間で聖地になっている大井製作所は、同じ都内だし人事機能があったので、何度も足を運んだ。

 移転したといっても横浜製作所に行けば、そのような父親のバックグラウンドを見付けられたかもしれない。しかし、父の頑固さは並大抵のものでなく、カメラはニッカ(Nicca)を使っていたのに、レンズは標準レンズのニコンではなくキャノンが付いていた。

 しかし、私はニコンの製品を使っている。双眼鏡なんて今は同じスペックのものが数千円で手に入るのに、従業員時代に買った5万円の物を使っている(そのくせ、壊れているのだから話にならない)。